NPO法人 彦根景観フォーラム

多賀への道、たけのこごはん、5月の森 多賀里の駅

2012年5月5日 多賀里の駅・一圓屋敷の集い

  近江の道 多賀への道

      愛荘町立歴史文化博物館顧問 門脇 正人さん

d0087325_10233064.jpg 滋賀県で最も集客力のある観光地は「黒壁」(長浜市)だ。平成22年度は約180万人の観光客が訪れた。では、第2位はどこか? 実は、多賀大社で約166万人である。彦根城の約73万人の2倍以上もある。その集客数を生かせているかどうかはさておき、昔から多賀大社は多くの人々を引き寄せてきた。その人達は、どんな道を通って多賀に来たのだろうか。
 今月の多賀里の駅・一圓屋敷の集いは、ふるさとの道の研究家 門脇 正人さんが、多賀につながる「多賀道」をテーマに、身近なふるさとの道の歴史を、残された道標と古地図をもとに解明していく物語を語られた。


数学の先生、街道をゆく
 門脇さんは、長年、彦根東高校で数学の先生をされていて、この日の参加者にも教え子が多く、お話が始まる前や後で旧交を温めておられた。でも、どうして、高校の数学の先生が「道の歴史」を調べて、歴史文化博物館の顧問にまでなられたのだろうか。

 きっかけは、門脇先生(とよばせていただく)が彦根東高校新聞部の顧問をされていたとき、江戸時代に朝鮮通信使がたどった道「朝鮮人街道」を歩いて、消えた道を探るルポの企画があり、その成果が高校新聞の賞を受賞して話題をよび、ついには「朝鮮人街道をゆく-彦根東高校新聞部による消えた道探し-」(サンライズ出版1996年)という著書に結実したことだ。

 このとき、朝鮮人街道を踏査していて、現在のJR能登川駅付近で地元の人の伝承や通説が誤りではないかと思われる個所を発見する。そして、地域に残る江戸期の村の古地図を見出し、伝承や通説の道が明治期に鉄道が開通した際に新しく作られた道であり、本来の道は別にあることを提示した。この体験で「歴史の道」、「ふるさとの道」という視点が定まった。門脇先生の手法は、道にのこる道標や丁石を調べ、地域にのこる古地図を発見して道の変遷を探るというものだ。


多賀への道
d0087325_10275798.jpg 滋賀は、かつては「近江」と呼ばれたが、今も昔も「みちの国」である。門脇先生は、古代には東海道、東山道、北陸道が、近世には、東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北国街道、北国脇往還、御代参街道、八風街道などが整備されたことを説明された後、「多賀への道」について詳しく語られた。

 代表格は、御代参街道である。これは、朝廷が京都から伊勢神宮へ参詣し、さらに多賀大社へ参詣する際に、名代(代参)を派遣したことから「御代参街道」と呼ばれるようになった。東海道の土山宿から、石原・岡本、八日市、中山道の愛知川宿にいたる東海道と中山道のバイパスであり、街道には、伊勢、多賀、北国を示す道標が多い。記録によれば、寛永7年(1640年)、春日局が上洛の途中に伊勢から多賀へ参詣したときに通行し、延宝6年(1678年)には遊行上人(神奈川県藤沢)が通行している。

 門脇先生の発見は、愛知川宿から八日市へ向かう御代参街道には、小畑、三又・新堂、愛知川の3つの道があったことを道標や江戸期の地権図からつきとめたことにある。



多賀道をいく

 さらに、中山道から多賀に至る「多賀道」には、高宮宿にある多賀大社一の鳥居から多賀に向かう高宮道(多賀本道)、彦根の大堀・岩清水神社前からの大堀道、現在の国道306号線と中山道の交点にある原からの原道の3つがある。この他に、湖東地域からは八千代橋-御河辺橋-春日橋を通る道、岐阜・三重からは五僧越え、鞍掛越えの峠道があり、この間に多賀を示す道標は80本を超えるという。

 当然ながら、歴史的な道の確定には困難が伴う。道は、今も昔も政治や経済の都合により移動する。明治期に陸軍測量部が作成した地図にも限界があり、古い道の発見には、道標や丁石と古地図が手掛かりになる。ところが、移動する道標、捨てられる道標、失われる地域の古地図が多く、それらの保存に向けて愛荘町歴史文化博物館が取り組む事業も紹介された。
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道標を建てたのは?
 道標は誰が、何のために作ったのか。門脇先生によると、幕府や朝廷が作ることは考えられない。道標を作るには相当なお金がかかるので、地域の金持ちが作ったと考えられるが、ほとんどが製作年や製作者を入れていないのでよくわからない。ただ、多賀大社などの神社関係では、個人の信者か伊勢講、多賀講の信者などが立てていることが多いという。

 門脇先生が紹介された道標には、常夜灯型から角柱型、川原の自然石に刻んだだけの簡素なものまで様々な種類があったが、地蔵後背型の道標は、滋賀県でも特定地域に集中している珍しいものだという。このような道標を建てたのはどういう人物で、どんな思いをもっていたのだろうか。
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伊勢と多賀のつながり
 実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。しかし、門脇先生のお話しにより、伊勢と多賀のつながりが見えた。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」

と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
 そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。


試食会は、たけのこ料理
 あれこれ妄想している間に、「たけのこごはん」が出された。うっかりそれぞれの料理名を聞き逃したが、シンプルで薄味ながら、たけのこの強い香りがする炊き込みごはんが主役だった。これは、いくらでも食べられるなぁ・・。
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5月の野鳥の森の花々
 集いに先立ち、野鳥の森を彩る自然の植物を観察する会が9時から開催された。
中川信子さんの案内で、5月の若い植物を見て歩いた。おもしろかったのは、非常にありふれたカラスノエンドウ(茎が太くて立派、淡い紅色の花)に、スズメノエンドウ(茎が細くて弱弱しい、白紫色の花)も混じっており、さらに、カラスとスズメの間の大きさの草の意味のカ・ス・マ・グサも混生しているという発見だった。
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 また、オドリコソウの花の白、ミツバアケビの花の深い紅に魅了された。クサイチゴの花から赤いジューシーな実を想像しつつ、5月の森のすがすがしさに「こんな朝が生きる喜びを感じさせてくれるんだ」と、そっとつぶやいてみた。
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次回の多賀里の駅・一圓屋敷の集い、試食会  
    6月2日(土) 9:00~12:00 一圓屋敷 参加料500円 
    第44回 「みんなで歩こう野鳥の森」 中川信子さん(自然観察指導員)
    9:00~ 多賀「里の駅」・一圓屋敷で各自おにぎりをにぎってお弁当を準備します。
         いろんな具でオリジナルおにぎりを作りましょう。
    10:00 初夏の植物を観察しながら、野鳥の森の散策路(約4km)を歩きます。

     自然の中で深呼吸!楽しい発見を一杯しましょう。
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by hikonekeikan | 2012-05-13 10:50 | 多賀里の駅・一圓屋敷
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