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NPO法人 彦根景観フォーラム

もう一度、彦根城へ行こう

それぞれの彦根物語98

佐和山城と呼ばれた彦根城

                          中井 均  滋賀県立大学准教授
                          平成25年2月16日 ひこね街の駅・寺子屋力石


 ときおり雪が激しく降る朝、彦根市花しょうぶ通りにある寺子屋力石に入ると、暖かい空気と、古民家特有のほの暗さを生かした美しい灯り、それに照らされた絵画が浮かび上がり、ほっとした。さっそくコーヒーを注文して席を探したが、中高年の歴史ファンや大学生、高校生で既に満席だった。
もう一度、彦根城へ行こう_d0087325_111093.jpg この日は、中井均・滋賀県立大学准教授が、彦根城の築城の歴史と城郭としての魅力を紹介された。
 先生は、中世の城館や山城の考古学的研究の第一人者だ。室町末期に勃興した地方領主が数々の紛争をへて戦国大名の体制に編成され、やがて武力統一されて徳川幕藩体制にいたる時代に、各地の山中に築かれ消えていった山城。それを見い出し、測量し、遺構から元の姿を推定して、近世の城郭に至る歴史的価値を解明されている。テンポよく、楽しそうに語られる姿は、まさに「歴史探偵」というにふさわしい。各県の山城の魅力をわかりやすく伝える著書も多数あり、「彦根城を極める」という本も出版されている。
 戦国ブームの今、「旬の人」である。その人と、これほど身近に語れるのは、「それぞれの彦根物語」ならではの魅力だ。


彦根城が佐和山城と呼ばれた?
 中井先生は、まず、彦根城が、佐和山城と呼ばれていた事実を紹介した。佐和山城は、関ヶ原の戦いで徳川方の井伊家には敵であった石田三成の居城であり、関ヶ原の戦いの数日後に落城している。ところが、19世紀の制作とされる「大日本五道中図屏風」では、彦根城を描いたうえに「佐和山城」の名前が書かれている。これは間違いでかたづけられるのだろうか? 謎解きは、物語の最後に用意されていた。


佐和山城から新城築城へ
 佐和山城は、慶長5年の関ヶ原の戦いの戦功により、井伊直政が徳川家康より賜った城である。佐和山城の二の丸には土佐殿丸、三の丸には越後殿丸の名前が残っていて、井伊家の重臣木俣土佐と中野越後の屋敷があったことを示している。つまり、佐和山城は、井伊家にとって重要な歴史の一つなのだ。
 その後、慶長8年(1603年)、彦根山に新城築城が決定する。慶長9年7月1日より第一期普請が始まった。当時は、徳川対豊臣の最終決戦への軍事的緊張が高まりつつあり、豊臣方の大阪城に対する前線基地として築城が大急ぎで行われた。工事は、幕府から派遣された公事奉行により指揮され、7か国12大名が動員される「天下普請」であった。
もう一度、彦根城へ行こう_d0087325_124225.jpg やがて、大阪冬の陣、夏の陣が終わり、平和な時代が訪れる。元和2年(1616年)頃から、第二期普請が行われ、大名井伊家の居城として整備された。天守閣とともに山の上にあった本丸御殿は、麓の表御殿に移された。また、表門も京都、大阪を正面にした京橋口方面から、中山道を正面とした佐和山口方面に変わった。戦争の時代から平和な武家儀礼の時代へと築城方針が転換したのである。


城郭としての魅力と謎
 こうした歴史をもつ彦根城の城郭としての魅力を、中井先生は五つあげた。
 一つめは、山城(軍事的な防衛を目的とする空間)と表御殿(居住、儀礼を目的とする空間)の二つが一緒にある構造である。
 二つめは、巨大な2つの堀切の存在。これは、太鼓丸と鐘の丸の間、西の丸と出曲輪の間にある。
 三つめは、鐘丸(かねのまる)の丸みを帯びた陣地。当時の技術では円形の石垣を作ることは不可能だったが、ここで120度の曲線を描いた石垣をつくることに成功、井伊年譜には「その縄張りは城中第一」と称賛されている。設計者は、早川弥惣左衛門であり武田流築城術の流派とみられる。
 四つめは、5本の登り石垣(竪石垣)と竪堀の存在。これは、豊臣秀吉が朝鮮に攻め入ったとき、朝鮮半島南部に築かれた倭城(わじょう)で初めて造られた、山上と山下を一体化して防御する施設で、日本では他に伊予松山城と淡路洲本城にしかない。 
 五つめは、天守が大津城の材木や瓦を転用していることがほぼ確実になったことである。第一期の天下普請は、急を要する中で行われたため、他の建物や石垣も転用した材料が用いられたと思われるが、どこの何を用いたのかは依然として謎である。特に、石垣は各大名が分担していることから石に大名の刻印があるのが普通であるが、彦根城では一つも見つかっていない。また、佐和山城の石垣を徹底的に破壊して彦根城に転用したと言われるが、佐和山の岩盤はチャートであり、一方彦根城の石垣は、ほぼすべてが湖東流紋岩であって、一致していない。


彦根城の新しい魅力の生かし方
 彦根城といえば、国宝の天守と国指定名勝の玄宮楽々園が観光スポットとして取り上げられてきた。しかし、彦根城の軍事施設としての特徴、政治の場としての特徴もきわめて魅力的だ。中井先生によると、最近になってようやく、石垣や堀切、竪石垣などの土木的な構造や、櫓や桝形などの建築物の機能について一般の人々の関心が寄せられるようになったという。各地の山城をめぐるツアーも、徐々に人気が高まっている。
 ただ、彦根城の場合、城の縄張りや石垣、櫓をめぐるガイド・ツアーは、これからというところだ。「彦根城に来たら、天守閣だけでなく、巨大な堀切と櫓により攻め手を罠にはめ、殲滅しようとする構造にも注目してほしい。だって、天守閣は、藩主も一生に一度登る程度で、実はめったに入らない建物だったのだから。天守閣の廊下が黒光りしているのは、後世、たくさんの観光客によって磨かれたからです。」と中井先生は会場を笑わせた。
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彦根城下町エコ・ミュージアム構想
 天守や庭園、華やかな大名文化へのあこがれの時代から、石垣や堀切、櫓などの城郭プランへの関心の移動、この線をもっと延ばしていくと、城下町の魅力を生かすというテーマにたどりつく。
 彦根は、何もなかった低湿地に新しくつくった都市で、都市計画に身分や経済が組み込まれている。それが現代にまで残っている点が大変珍しい。その魅力に注目して保存と活用をしようというのが、彦根景観フォーラムが提唱する「彦根城下町エコ・ミュージアム」構想だ。
 身分と機能によってエリア分けされた地域ごとにサテライトとなる「歴史的建物」を保存し、その周辺に「発見の小径」を巡らせて、サテライトを移動しつつ、城下町の生活の過去と現在を体感してもらう「生きた城下町博物館」をつくろうという構想である。
 城郭を巡ったら、ぜひ城下町も巡ってみよう。彦根とその周辺は、天守や御殿などの政治的中心部、軍事的な城郭、暮らしと経済が息づく城下町と農山村や漁村、宿場町を配した近世都市構造の典型といってもよい地域である。こうした農山漁村を含めた全体を視野に入れた紹介施設「コア・ミュージアム」も望まれる。しかし、観光の最大の喜びは人と人との交流である。地域の人々の歴史を大切にした生き方がそのまま博物館になる。地元の人の笑顔には、どんなに立派な博物館もかなわないだろう。


歴史は作られる!
 最後は、彦根城が佐和山城と呼ばれた謎解きである。
 中井先生は、徳川将軍の行動を記録した公式記録『徳川実記』などに、将軍が彦根城を訪れた際、頻繁に「佐和山」着と書かれていることを明かした。そして、もう一度「大日本五道中図屏風」を見てみると、美濃加納城が、廃城となったはずの「岐阜城」と書かれているという。つまり、新しい名前はいまだ普及せず、旧名が使われたのだ。おなじような事例では、松本城は深志城、福井城は北ノ庄城と江戸期前半は呼ばれていたという。
もう一度、彦根城へ行こう_d0087325_152040.jpg 何か肩すかしにあったような印象を受けるが、少し考えてみよう。なぜ彦根城の名前が佐和山城ではおかしいと思ったのだろうか。それは、二つの城が敵対関係にあるという思い込みがあったからだ。市民は、石田三成の統治の影を払しょくするため、井伊家が佐和山城を徹底的に破壊し、自らの権力を示す彦根城を築いたという物語をどこかで聞いている。 
 しかし、中井先生によると、井伊直政は家康より佐和山城を賜ったのであり、佐和山城は井伊家にとって吉祥の城なのだ。だから、佐和山と呼ばれても抗議しないし、上野国高崎藩から移転した菩提寺である龍潭寺を井伊家の墓所とせず、清凉寺を佐和山の麓に創建したのだという。
 こうなると、何が正しい解釈かは不明である。ただ、歴史は幻想なしには見られないということは言える。歴史はつくられる。だからこそ物証が必要だ、と先生は言いたかったのかもしれない。


情熱の言葉
 中井先生の話はおもしろい。私たちの無意識の先入観を揺さぶる新しい視点を与えてくれる。しかし、このおもしろさは、それだけではない。
もう一度、彦根城へ行こう_d0087325_154829.jpg 彦根藩が作成した「御城内御絵図」を示しつつ、山裾部を5~7mも垂直に切り落として兵が登れなくした「山切岸」を指して、中井先生は「私はここが特に好きなんです。お城の入場券売り場の横からこの垂直の山切岸をみると、一日見ていても飽きません。私以外は誰も見ていませんが・・。」という。鐘丸では、「普通の観光客は鐘丸に入ってすぐ天秤やぐらの方に行かれる。鐘丸の丸みを帯びた石垣沿いをニコニコして歩いている人を見たら私と思ってください。」といい、大手門から登りの道を経て、桝形の手前からみる天秤やぐらの写真を映写して、「ここが彦根城では一番美しいと思うんです。敵が門を突破して桝形に入ったとたん、天秤やぐらの2階建の窓から一斉に鉄砲で撃つ。そのためだけに作られている。余計な窓は一切ないんです。そんなすごい景色なのに、この電柱と電線が邪魔なんです。市がいずれ、なんとかしてくれると信じていますが。(笑)」という。
 自分つっこみで聞き手を笑わせると同時に、「好き」「美しい」などの情熱あふれる言葉が強い共感を生んでいる。


彦根城の木を切る
 会場からは、質問が相次いだ。その中に、いま、彦根城の石垣の上の木を切り倒しているが、これは石垣を崩れやすくするのではないか。また、長い歴史のある貴重な木を切ってよいのかという質問があった。
 中井先生は、即座に、木の根が石垣を崩す原因になっていると答えた。現在の樹木のほとんどは、明治期以降のもので、江戸期には松以外の樹木はなかったのではないかと思う。市の検討委員会で、生物的に貴重な樹木や生態系上重要な植物を残し、石垣に悪影響を与える樹木だけを切っているので、ご理解いただきたい。桜も昭和12年に植えられたもので、本来城にはなかったと述べられた。
 そういえば、天守閣や天秤やぐら、着見櫓の高い石垣が、市街地からもよく見えるようになった。冬は特によく見える。この機会に、カメラをもって彦根城の城郭としての魅力を体感してみたい。(堀部栄次)

次回は、
平成25年3月16日(土) 10:30~12:00
彦根市花しょうぶ通り 寺子屋力石


「それぞれの彦根物語」99

NPOで学んだ、読んでもらえる文章術

堀部 栄次 彦根景観フォーラム理事、きらっと彦根編集人 

 講師は、このブログを書いている私です。私が、どういう方法で、この文章を作っているのか、3つのポイントをお話しします。いわゆるサラリーマンの私が、NPOの広報担当となり読んでもらえる文章を書くために、試行錯誤したエピソードと、見つけた文章術は、あなたにも参考になると思います。よろしければ聞いてください。
by hikonekeikan | 2013-02-28 00:54 | 談話室「それぞれの彦根物語」
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