NPO法人 彦根景観フォーラム

築城400年祭《談話室》 それぞれの彦根物語 2007.1.13

【彦根物語20】
 「彦根南部の民話」

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皆川 重徳
(彦根史談会副会長)



 私達は幼い頃よりいろいろの昔ばなしや民話を身近な人々から聞かされて育ってきた。
 しかし、現代は物質中心の文明社会でさまざまな情報が簡単に伝わり、なかでも過激なマンガやテレビゲーム等が子どもの世界を支配し、人間相互の暖かい心のふれあいや素直な感動をなくしてきている。そんなことから明るく住みよい地域づくりをしなければならないと思い、微力ながらボランティア活動を通じて地域の民話や伝説を集め、それらの中に生きている先人達の「人や自然を愛し、事物を大切にし、力を合わせ平和に暮らす心」を伝え育てたいと考えている。

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1.荒神山「へび岩」伝説
荒神山の東面の山腹に「へび岩」という大きなへびの頭ににた岩がありますが、それには次のような伝説があります。
 「むかし天竺(てんじく・インドの古名)の霊鷲山(りょうじゅせん)の一岳を、大へびが背に乗せて月氏國(げっしこく)を経て日本に化来し、大へびは岩と化し、毎朝東にむかって三度口を開いて、日光を呑む。」というのです。
 紀元前5-6世紀頃インドにおこった仏教が紀元前2世紀に、中央アジアから当時中国西域に栄えていた「月氏國」へと伝わり、さらに、途中敦煌などの石窟に、壁画や仏像などの見事な仏教美術をのこしつつ中国・朝鮮を経て、538年日本へと伝来してきました。このとき日本には、古来からの根強い神への信仰がありましたが、仏教は次第にこれと融合して、ついに仏教文化最盛の奈良時代をむかえることとなりました。
 当時ここ荒神山の山上は、神の場として犬上・愛知・神崎・蒲生四郡の祓所(はらえどころ・一年の罪やけがれを神に祈りはらい清めるところ)となっていましたが、ここに渡来系の僧行基によって奥山寺が建立され、その縁起として、日本への仏教伝来の歴史的事実をもとにしたこの「へび岩」伝説がつくられたのです。
 へびは、龍とともに仏法を守護する神であり、また雨や水をつかさどる農耕の神ともあがめられ、いまも、へびや龍にまつわる物語や伝説は、全国各地の昔話のなかに数多く語られています。
 いまこの「へび岩」には地元有志の方々によって「しめ縄」も張られて、この霊石を祀っています。                    (故久木恒太郎氏の「亀山学区報」掲載文より)
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「荒神山の大蛇岩」(追加資料 1月13日談話室にて未報告)

 荒神山麓から少し上がった所に大蛇岩がある。今は樹木が繁茂してほとんど見えない。長さ約6メートル、幅3メートル、高さ3メートル余りの大岩で、大蛇の形相をしていて昔から霊岩といわれ、今でも汚されないでいる。
 三宝大荒神御縁起の中に、「当山に鎮座する、三宝大荒神と申し、世に比類なき霊像で、大蛇に乗り八面八臂の形をされ光をはなち給い、天下太平、五穀成就、国家安全をお祈りなさった。その時乗り給う大蛇は、大蛇岩と変わって、山麓に尾頭の姿をされ、当山守護の神となり今に至って、蛇岩と呼び 云々」また、「天竺より来た石にて、日に三たび口を開く石なり」と。
 淡海地誌にも次のように書かれている。「明治年間の昔の話。米の相場師がここに日参し、米を口にそなえて、翌日朝早く来てみて、供えた米粒が、減っていれば米が高くなる。又、数がそのままであれば相場が上がる。」という伝説が残っている。
(昭和49年亀山小学校父母と教師の会発行「かめやまのむかし」より)
 奥山寺縁起には「天竺霊鷲山一岳が大蛇の背に乗り~」とあり、一方、三宝大荒神御縁起には、大蛇の背に乗って来られたのは「八面八臂の三宝大荒神」となっている。
 民話や伝承が文字化された時、編者の立場が僧侶か神官かによって違ったのであろうか、それぞれの縁起がつくられた年号や時代背景について調べてみたい。

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荒神山神社の三宝大荒神

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大へび岩

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2.金鶏山「伝説のいろいろ」
 東海道線の河瀬駅を南へではずれて200メートルばかり進んだ所に亀の背のような小さな山があり、電車はここでひどくカーブします。今は切り開かれて、ますます小さくなったこの山には、こんな昔話が残されています。
 この小さな山は、その昔は亀山といい、大正天皇がこの山頂で大演習を御統監になってからは、その御命名によって茂賀岡を「いかしがおか」と呼ばれた由緒ある山ですが、今一つこの山頂の碑には、「当山は、今を去る数千年の昔、天津彦の命 金鶏に乗り 天下り給う」とあって、別の名を金鶏山ともいいます。
 嘉禎年間、この山頂に築城した若い殿様がありました。ある月の夜、お庭の石に腰を下ろして虫の声を聞いておられますと、その石の下から「どうか、この石をのけてください。」と美しい女の声がします。不思議に思ってお殿様は、その石を転がしますと、そこは、ほら穴になっていて、その中から「ありがとうございます。おかげで私は天国へ帰れます。お礼に私の産んだ金の卵をあなたに差し上げます。」と、いいながら黄金まぶしい金の鶏が、天に向かって飛び立って行きました。
 若い殿様は、おそるおそるそのほら穴の中へ入って行きますと、どうでしょう。幾千幾万の金の卵がさん然と輝いていました。お殿様は大喜びで外にでると、また、堅く石の戸を閉じて、お城の宝としました。
 今もその金の卵は、この山のどこかに隠されているとか。その後、この卵は、この山を訪れた人により何度か掘り出そうとされたと言います。
           (昭和49年亀山小学校父母と教師の会発行「かめやまのむかし」より)


3.安食の剛勇物語
 太堂町の町内に「お屋敷やぶ」という、広いやぶ地になっているところがあります。ここは昔、保食神(うけもちのかみ)という五穀をつかさどる神を祀った祠(ほこら)のあった所で、その祠が阿自岐神社に合祀されて空き地になった跡に、こんどは清見郷(きよみきょう)という身分の高い人が屋敷を造って住んでいました。そしてそこには、次のような昔話がいまに伝えられています。
 いまからおよそ千二百年ほど昔のこと、平安時代も始めの弘仁六年(815年)のことでした。たまたま多賀大社のお祭りがあって神輿の渡御が犬上川畔の御旅所に向かっているとき、にわかに恐ろしい悪鬼が現れて、その行列を妨害し、神輿を奪って虚空に巻き上げてしまいました。
 このとき、行列のお供をしていた清見郷は、この様を見るやいなや、すかさず持っていた剛弓に雁股(かりまた)の矢をつがえ悪鬼を射落とし見事に退治したのです。見ていた人々はその剛胆な早技に舌を巻いて驚き、その勇名はたちまち「安食の剛勇」とたたえられて、近郷近在に響き渡って行きました。
 このとき悪鬼は、普賢寺郷(いまの犬方町)山木戸神社宮地に射落とされ、また清見郷の射た矢が地に落ちて刺さった所は、阿自岐神社境内の「矢池(やいけ)」と名付けられて、いまに伝わっています。
(昭和59年亀山学区ふるさとじまん(その三)久木恒太郎さんの記事より)


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亀山地区、荒神山、民話、「奥山寺縁起」、亀山(茂賀山)、阿自岐神社、久木恒太郎


★談話室「それぞれの彦根物語」の関連情報は、下記HPでもご覧いただけます。
滋賀大学産業共同研究センター
滋賀大学地域連携センター
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by hikonekeikan | 2007-03-06 13:45 | 談話室「それぞれの彦根物語」
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