NPO法人 彦根景観フォーラム

辻番所サロン「芹橋生活」1   江戸時代の足軽

 2008年12月21日(日)、第1回辻番所サロン「芹橋生活」が、彦根市芹橋二丁目の辻番所・足軽屋敷で開かれ、芹橋の住民など約50人が参加されました。
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辻番所保全活動の経過
 彦根景観フォーラムにとって、芹橋地域は「未来に遺したい日本の原風景」の典型であり、彦根の世界遺産登録申請の重要な鍵であると考えています。
 その芹橋二丁目のほぼ中央にあって、江戸末期から今日まで奇跡的に残った辻番所・足軽屋敷は、市民をはじめとする多くの皆様の寄付と、これを受けた彦根市の買い取りにより、売却・取り壊しを免れました。
 そして、市民と行政が力をあわせて、辻番所・足軽屋敷を保全しつつ活用するため、「彦根辻番所の会」が、12月から活動を開始しました。
 当面、毎月第3日曜日午前10時30分から12時まで、辻番所・足軽屋敷を活用して、辻番所サロン「芹橋生活」を開催します。まず、歴史的な話から始めて、芹橋の生活や、城下町の文化などに話題を広げていく予定です。


第1回 辻番所サロン「芹橋生活」
 2008年12月21日(日)の第1回目は、母利美和 京都女子大学教授、彦根景観フォーラム副理事長に「江戸時代の足軽」と題してお話しいただきました。足軽屋敷は30人の定員に対して50人近い人々が来られ、満員の状況でした。

「江戸時代の足軽」 
   母利美和 京都女子大学教授、彦根景観フォーラム副理事長

辻番所・足軽屋敷の住人であった足軽とはどんな人たちだったのか、江戸時代の一般的な足軽のイメージを紹介し、彦根藩の足軽と比較して特徴を明らかにしたい。

■ 江戸時代の足軽の一般的な姿
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 戦国時代には集団戦の主力であった足軽だが、江戸時代になると戦乱の終息により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ、武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うこととなった。
 徳川直属の足軽は、幕府の末端行政・警備警察要員として「徒士(かち)」や「同心」に採用された。
 諸藩では、大名直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用、「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。このほかに、大身の武士(彦根藩は木俣家など)の家来(陪臣)にも足軽がいた。

●足軽は一代限りの身分
 足軽は、基本的に一代限りの身分である。実際には、引退に際して子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であった。また、薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、裕福な農民、商人の二・三男の就職口ともなった。
 さらに、有能な人材を農民や町人から登用する際に、一時的に足軽として在籍させ、その後昇進させる等のステップとしての一面もあり、近世では下級公務員的性格へと変化した。足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、藩境・周辺警備に当たらせた事例もある。(熊本藩、仙台藩)

●武家奉公人と同列の扱い
 このように、江戸時代の足軽は、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰藩卒として動員されたりした。逆に好奇心旺盛な郷士の子弟は、これらの制度を利用して見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。また、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役割の足軽もいた。足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列と見られる例も多く、諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入がなく、ただ人数が記入されているものが多い。また、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。
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■ 彦根藩の足軽の特徴
●彦根藩の足軽組織
 彦根藩の足軽は 弓組20人が6組、鉄砲組30人が25組、40人が5組、50人が1組、合計1,120人の編成。各組は、武役席の物頭(ものがしら)が支配したが、数年から十数年で支配替えがあった。各組には、鉄砲、弓の流儀があり、物頭が交替しても流儀は変わらなかった。

●彦根では苗字帯刀を許された身分
 彦根藩の足軽は、苗字帯刀を許されていた。苗字を持たない中間・小者とは一線を画する身分として扱われ、慶長期の分限帳では、個々の人名までは把握できないが大坂両陣に出陣した足軽はすでに苗字をもっていた。

●一戸建・門構えのある足軽組屋敷を形成
 城下の「外ヶ輪」(外堀より外の第4郭)の居住区にそれぞれ50坪程度の屋敷地を与えられて一戸建ちの門構えのある屋敷を構え、組ごとに組屋敷を形成した。扶持高は、慶長7年(1602年)では、一人につき17石とされ、幕末期では20俵2人扶持とされた。
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●「武役」と「役儀」・彦根藩足軽の仕事
 武役では、弓・鉄砲による足軽隊として物頭の指揮のもと各騎馬組に従軍した。このため、日常から武芸稽古が求められ、稽古銀が支給された。寛政12年の善理橋(せりばし)十二丁目(鉄砲40人組)の場合、鉄砲矢場での作法、日常的な稽古の規則、矢場管理などが定められていた。
 戦争がなくなると、足軽は、井伊直孝の時代に武役の他に城中番を「役儀」として勤めるようになった。元禄8年(1695年)には、足軽組の一部が「御城内番」や城下11口に設けられた「御門番」を勤めていたことが記録されている。
 このほかに、江戸詰、普請方への「出人」、注進番・辻番、お屋敷見回り番、大津廻米舟への「上乗御用」、領内の「米見」(収穫高に応じて年貢を取るため筋奉行に同行して計算、記録をしていく役)、近国・遠国への使者派遣などを順番割当で勤めた。
 また、「引け人」とよばれ、作事方・御材木奉行・町奉行から引き抜かれ役儀を勤める者もあった。これらを含め、彦根藩では武士の80%が役儀を勤め、他藩に比べて非常に多い。

 彦根藩の足軽は他藩にくらべ優遇されている。
他藩では長屋住まいが普通であるが、屋敷地が与えられ門付きの一戸建てを構え、すべてが城下に住み、給与が保証された。
 これは、役儀が割当てられ藩政機構に位置づけられたことと関連が深いとみられる。金沢藩とほぼ同じ扱いである。
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■ 町人との関係解明が今後の焦点
 今後の研究ポイントは、町人と足軽との関係の解明である。足軽屋敷地は、本町、河原町といった商業地と接しており、日常生活でも町人との関係が強かったと見られる。この関係を解明する史料があれば足軽の暮らしが解明できる可能性がある。
 皆さんのお宅にあれば是非見せていただきたい。

質問1:私の家は勘定人町にあり、先祖は勘定奉行であったといいます。勘定人はどのような足軽なのでしょうか?
 勘定人は藩の経理・財政を担当する、今日でいうと主計官であり、足軽とは違います。勘定人は、彦根では芹組足軽屋敷と隣接していますが、勘定人町という別の居住区を割り当てられ、宗安寺の隣の勘定所という役所に勤めていたのです。
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質問2:鉄砲矢場はどこにあったのでしょうか? 
 残念ながら私も知りません。どなたか、ご存じの方はおられますか。
(会場から)芹橋の古地図に「矢場」という区画の記述がありました。

質問3 筆頭家老の木俣家にも足軽がいたということでしょうか? どこに住んでいたのでしょうか?
 木俣家は、約400人の家臣を抱えており、そのなかには足軽身分の人もいました。
 彦根城下町には、いくつもの木俣屋敷、木俣家下屋敷があり、長屋門などで居住していたと考えられます。
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1~3月のサロン『芹橋生活』の予定は次のとおりです。

第2回 1月18日(日)10:30~12:00
     東谷 智(甲南大学文学部准教授)
     身分移動する下級武士 ―足軽と武家奉公人―

第3回 2月15日(日)10:30~12:00
     渡辺 恒一(彦根城博物館学芸員)
     芹橋足軽組の居住配置の復元

第4回 3月15日(日)10:30~12:00
     母利 美和(彦根景観フォーラム副理事長、 京都女子大学文学部教授)
     足軽善利組の変遷


定員 30名   ※暖房費 100円
主催:NPO法人彦根景観フォーラム、彦根辻番所の会
※駐車場はありません。駐輪場は利用していただけます。
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by hikonekeikan | 2009-01-12 00:47 | 辻番所・足軽屋敷
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