NPO法人 彦根景観フォーラム

カテゴリ:辻番所・足軽屋敷( 20 )

足軽遺産を守り、活かし、育てる

特集 足軽遺産を守り、活かし、育てる
     足軽・辻番所サロンで見えてきた「歴史まちづくり」

足軽・辻番所サロン「芹橋生活」とは
d0087325_21404111.jpg 彦根景観フォーラムと彦根辻番所の会は、彦根市芹橋で「足軽・辻番所サロン『芹橋生活』」を開催しています。2008年12月から始まり2013年3月で38回目を迎えたサロンは、城下町の歴史遺産を、まちの未来を紡ぐための貴重な資源と考え、まちなかに眠るさまざまな足軽遺産を発掘して活用する「歴史まちづくり」を進める目的で、地域の人々と一緒に学習し実践してきました。
 今回は、第37回「足軽屋敷を見てみよう!」で公開された2つの足軽組屋敷の修理の事例と、第38回「新出・中薮組足軽辻番所資料の紹介」で明らかにされた足軽家の相続や組のもめごとなどを紹介し、足軽遺産をどう活用するか、地域をどう育てていくか、「足軽・辻番所サロン」で取り組んできた「歴史まちづくり」の成果を考えてみます。

現地でみる足軽組屋敷の保存修理
d0087325_21443333.jpg  第37回は、2月24日(日)、四番町ダイニング・多目的ホールで、足軽組屋敷の保存修理の説明と現地見学会が行われました。約80名の参加者は3班に分かれて、吉居家~辻番所・旧磯島家~太田家(資料展示)~瀧谷家(初公開・中薮組屋敷・栄町・H24年市文化財指定)を訪れ、雪の降る中、熱心に説明に聞き入っていました。

暮らしに活かす吉居家住宅
d0087325_2154549.jpg 足軽組屋敷「吉居家住宅」の修理については、建築家で彦根景観フォーラム理事の笠原啓史さんが説明されました。
 長年空き家であった吉居家は、①瓦が劣化して雨漏れが各所でおこっている、②雨漏りが原因で、内部に蟻被害がある、③床には、足固めがなく構造的に弱い、④柱が庭側で大きく傾き、南に最大63mm、東に30㎜傾いている、⑤道路側小屋裏の丸太梁が切断されている、などの課題がありました。
 そこで、笠原さんは、市指定文化財としての価値を損なわないよう配慮しつつ、安全性を高め、この家で暮らすことを目的とした改修を行いました。具体的には、屋根の葺き替え、構造的補強として足固めや耐力壁の新設、蟻害、腐朽箇所の修理を行い、妻入りの玄関を当初の平入りに戻し、門・塀も当初に復元しました。
 さらに、増築してキッチンやトイレ、風呂などの水回りを新設し、現代の生活に合わせたコンパクトでシンプルな魅力をもつ空間を実現しています。住むことで建物を維持する例といえます。
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文化財として保存する辻番所・足軽屋敷
d0087325_21562439.jpg 辻番所・足軽組屋敷(旧 磯島家住宅)の保存修理については、彦根市教育委員会文化財課技師で彦根景観フォーラム会員の深谷 覚さんが解説されました。
 この屋敷は、彦根景観フォーラムなどが古民家再生トラストを結成し募金運動を行った後、寄付金を彦根市に寄付して市が買い取り、平成21年2月に市文化財に指定されたもので、現在も修理が続けられています。
 修理は、建築当初の姿に戻すことを基本にされています。辻番所部分は半解体され、足軽屋敷とは接続していなかったことが判明したため道路側からの出入口が復元されました。住宅部分は全解体され、後世の増築であるキッチン、トイレ、風呂は撤去されました。屋根の葺き替えには当初にはない杉板、杉皮張りの補強が加えられ、柱にも必要な耐震補強が行われました。
 さらに、外壁、内壁の白漆喰の下から煤が検出されたことから、外壁は中塗で仕上げられ、内部のトオリニワは荒壁で仕上げられていたと判明し復元されました。
 平成25年度には、室内の壁の中塗仕上げ、建具の設置、西側庭の整備と南側道路との間の高塀の復元などが行われ、いよいよ完成となる見込みです。
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 この建物は、暮らすことを前提としていません。文化財としてどう活用するかが問題となります。
しかし、建物だけでは、当時の人々の暮らしや人生が見えてきません。それを見せてくれたのが、初公開された瀧谷家住宅でした。

初公開・瀧谷家住宅
d0087325_22374765.jpg 瀧谷家は、善利組の隣にあった中藪組に属する足軽屋敷で、安政2年(1855)の「家相図」などの古文書や歴史的工芸品が豊富に伝来しています。当日は、古文書とともに、火縄銃や的、鉄砲を500発撃って命中、外れを記した記録、さらに新式銃の弾丸と火薬をセットして紙で包んだ早盒(はやごう)などが展示されました。


足軽家は相続されたのか?
 中藪組・瀧谷家で新しく発見された資料については、3月17日(日)に足軽組屋敷「太田邸」で開かれた第38回サロンで、彦根城博物館 学芸史料課長の渡辺恒一さんが解説されました。
 瀧谷家は、江戸時代を通じて同じ鉄砲足軽三十人組に属していました。瀧谷家略年表によると、滝谷丞右衛門に「素明き」が下し置かれ、養子で初代の滝谷伴六が享保15年(1730年)に召抱えられます。「素明き」とは、足軽の欠員のことと思われます。ところが、江戸期の7世代のうち、初代から5代までが養子であり、他の足軽組の家の男子や他国の百姓の倅、浪人が瀧谷家を継承しています。相続というより、足軽の地位が株のように譲渡された可能性が高いと言わざるをえません。
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辻番所で好き寄りの宴会?
 「辻番所に好き寄りして酒肴で騒ぎ、無駄づかいをする」。同じ鉄砲足軽30人組に属する8名の足軽が連名した天保11年(1840年)の口上書も瀧谷家から見つかりました。古参の出人(藩の役所や江戸詰に出向した足軽)が、わがまま放題で、当番を新参の者に押し付け、組内の年寄りの指図も手代からの申しつけも聞き入れない。組頭から言い含めてほしい。あわせて、一統に「御直書」を示し引き締めてほしいという内容です。
 口上書からは、辻番所の経費が組の共同負担であること、組内には借金をしている者が多く、破綻した瀧谷家資料からは、足軽組屋敷で生きた人々の人生や経済状態、さまざまな事件などがうかがえ、復元された足軽屋敷にも活かすことができます。
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足軽・辻番所サロンの成果
 足軽・辻番所サロンでは、足軽組屋敷の敷地や建物の特色、そこに暮らした足軽と家族の変遷、家計の状況、足軽の仕事や組織と掟、昭和の暮らしなどを、専門家の協力を得ながら掘り起こしてきました。
 さらに、足軽組屋敷と1間半の路地がつくり出した都市の原風景とも言うべき景観について、現代における価値を再評価し、「路地」を生かしたまちづくりをどう進めるか、その際に課題となる災害に対する備えをどうするか、若者も住みたいと思うコンパクトで人間的な絆が息づくコミュニティをどうつくるかなどを議論してきました。

2つの足軽屋敷から見えてくること
 住むことで再び活かされる吉居家、文化財として過去の人々の暮らしや人生に触れる場に活かされる辻番所・足軽屋敷。2つの実例が生まれたことは、歴史まちづくりにとって大きな一歩といえます。
 どのような形であれ活用されない建物は存続できなくなる。これは経験から得た教訓です。地域に埋没する資源を活用するには、現代、そして未来における意味を発見し、価値を創造することが欠かせません。こうした価値は、見ようとしなければ見えないもので、意識的に行う必要があります。そして、活用によっては人々に感銘を与える地域の宝になり、さらには未来を育てる種になるのではないでしょうか。 (堀部 栄次)
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by hikonekeikan | 2013-05-28 22:31 | 辻番所・足軽屋敷

足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった

足軽辻番所サロン 芹橋生活31

普請方手代日記「諸事日記」をよむ(1)

  母利美和 (彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)

 彦根景観フォーラムでは、江戸時代に築かれた彦根藩最大の足軽組屋敷地・芹橋で、毎月第3日曜日の午前10時30分から足軽屋敷太田邸をお借りして「辻番所足軽サロン 芹橋生活」を開催しています。

 歴史と調和したまちづくりをめざして、保存・再生が進められている辻番所・足軽屋敷をどう活用するのか、まちの特徴である歴史的な路地を活かした、若者も高齢者も安心して住める「まちづくり」をどう進めるかなどについて、これまで話しあってきました。

 今回は、芹橋8丁目の芹川堤防に接して建っていた彦根藩御普請所に勤務した足軽の日記「諸事日記」を、母利美和先生(京都女子大学教授・彦根景観フォーラム理事)と一緒に読み解き、ベールに包まれた足軽の仕事の実態を探りました。


兵士、警備員、そして下役人としての足軽
d0087325_23413761.jpg 足軽の仕事(役儀・やくぎ)は、第1に軍役(ぐんやく)である。鉄砲や弓で戦う足軽は、安土桃山時代から江戸初期の合戦の主力であった。
 第2に、城や門などの警備がある。これは、城中番と呼ばれ、負担が軽いため隠居した足軽が門番として働く「番上がり」のしくみもあった。
 第3は、各役方(役所)での下役人としての仕事である。彦根藩では、行政機構として普請方、作事方、町方、筋方などがあり、普請奉行、作事奉行、町奉行、筋奉行などがおかれていた。その奉行のもとに実務を担う下役人がいたが、その多くは足軽などの下級武士であった。役所の中でも最も足軽の人数が多かったのが普請方であった。
 
 奉行の配下で下役人を管理する中間管理職が手代である。手代は足軽身分であり、普請方のほかに、6名の筋奉行の下で地方の村を支配した筋方の手代、舟方、作事方などの手代がいた。なお、町同心(町廻り衆)も、組足軽ではないが池須町の足軽居住区に屋敷を持っていた。

 「諸事日記」は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、普請方手代見習いに任命された文化8年(1812年)から文政7年(1825年)までの13年間の日記である。この種の記録としては、文政7年(1825年)から文政10年(1828年)までの小野正好による「官事録」、正好の子にあたる小野・助三郎・正虎による嘉永6年(1854年)からの記録「公用留」、同じく正虎による文久2年(1862年)からの「公用留」がある。足軽小野家は、4代から5代にかけて普請方手代を務めていたことになる。


普請方を支えた足軽達の役割
d0087325_23425050.jpg ところで、普請方は今日の土木事務所にあたる役所で、城下町の石垣や道路、河川などの整備と管理を担当し、建物の建設や修理は、作事方が担当していたとされている。しかし、藩によってその役割は異なり、また時代によっても異なるようだ。

 母利先生は、時代ごとの普請奉行配下の役人について、その役名と人数、出身階層を明らかにされた。
 それによると、天保7年時点で65種の役名があり、299人の下役人がいるが、このうち足軽身分は40種の役名で221人、旗指身分が12種の役名で39人、扶持人が13種の役職で39人であった。

 これが天保11年になると、足軽が役職名で1増、人数では249人で28人増、旗指が42人で3人増、扶持人が40人で1人増と、やや増えているが大きな変化はない。

 ところが、元治元年(1864年、明治維新の4年前)でみると役職名が激減し、人数も足軽が58人と天保11年より191人も減少、旗指は26人と16人の減少、これに対して扶持人は39人の1人減少でほぼ変わっていない。この激減の原因は、幕末の軍事対応で足軽や旗指は本来の軍役に動員されていたが、村に住み、藩から扶持米をもらって村行政を担当していた扶持人には影響がなかったとみることができる。



普請方足軽の経歴
 天保7年の普請方下役人のうち、足軽身分に注目してみると、最も人数の多いのが場所役の35名で、次に梃子役の29名、ついで奉行の代行である手代が13名、物書き役12名、看板役10名となり、あとの35の役名は10名未満である。

 母利先生が示された普請方下役名寄資料(天保7年)により各役人の経歴をみると、手代の経歴は不明だが、それ以外の役職では、梃子役、場所役を初期に経験している人が多い。つまり、普請方では、まず梃子役、場所役を経験し、次第に別の役職を経験していくが、他の役所との転出入は極めて少ないようだ。

 所属組を見ると、手代は善利橋六丁目に集まっているが、他は善利橋の一丁目から十五丁目まで広く分散しており、上組、中組、下組、北組が混じっている。


普請方手代の仕事と交際
 さて、「諸事日記」を読み解いていこう。なお、日付は旧暦であり、新暦より約1か月遅れるとみてよい。

d0087325_23521888.jpg 日記は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、、文化8年11月28日、手代見習いに任命され、善利橋6丁目に引っ越したところから始まる。

 文化8年11月28日、晴れ、藩の守野御林で松の枯木の入札に立ち会う。落札者から札を受け取り、切株に極印を打つ。手代の日夏永介、木村鉄太郎、小野が出向き、笠持一人、御役夫が同行した。12月11日は、雪降りで、上番衆町小山鹿之介宅で火事がおこる。仲間全員と両普請奉行が出勤する。現場検証を行い絵図を書く。仲間一人、絵図方一人、笠持一人、料紙箱一人、作事方より棟梁一人が参加した。絵図を承認し、普請奉行、作事奉行へ提出したというように、簡潔に事実と行動を記録し、出動した人物名を丁寧に記録していることが特徴だ。

 同日は雪かきを行い、八つ時分(午後2時頃)に佐和町魚屋文七がもめごとで傷害事件をおこし、奉行以下が出勤した。13日は、例年通り正月に門に飾る松飾りの手渡し、28日は城中と外堀周辺の一斉掃除の後、お歳暮を届ける。1月1日は家老と2人の奉行に年賀に参り、6日には見習いを仰せつかったことで手代仲間にお神酒をふるまう。その後、鏡開きなどの行事が続き、役所は11日から始まり、年間の出張当番を決め記録帳簿を作成している。


普請方のさまざまな仕事
 ここから文化9年の1年間の主な仕事をみてみる。

d0087325_081934.jpg 土木作業では、6月に芹川から取水する上水道に溜まった泥の浚渫、7月には善利川橋詰に集めた赤土を運んで巡礼街道を補修している。8月末からは、松原川口の腰石垣の修理にかかり、梃子役や銀山日雇を用い、米原や長浜などから5~6艘の舟を動員している。9月には沖之島へ石材の切だしの検分に出張する。ついでに長命寺に参詣している。11月から松原川口の浚渫を始める。藩南部の乙女浜から北部の山利子、片山にいたる港の舟を28隻も動員して1月ぐらい続けたとみられる。

 次は、城下町の草取りである。例年、足軽の出人(動員)によって大規模に行う。この年は3月に2回、4月に2回、6月に2回、7月1回、8月1回行っており、6月11日の草取りには足軽出人85名と記録されている。冬の雪かきも普請方の仕事で、11月、12月に6回の出動があった。

 意外だったのは、武具甲冑の虫干しが普請方の仕事である点で、6月12日の土用入りから城中の櫓に入り9日間、天候を見ながら実施している。さらに、火事や傷害事件の立ち会いにも普請方が出向いている。


藩主のお国入りとまつたけ狩り
d0087325_23545412.jpg 面白いのは、この年(文化9年)の6月に、藩主の初めてのお国入りがあったことだ。小野らは、藩主お国入りの連絡を聞くや家老にお祝いを申し上げに参上し、6月18日の到着時には、殿様が城下町に騎乗して入ってくるのに対し、普請奉行、作事奉行達が出迎えて並ぶ順番、小野らの手代の並ぶ場所が記載されている。切通し桝形より内側に順番に腰を落とし蹲踞の姿勢を取っていく。その先に家老や他の奉行が並んでお迎えする。見物する人の数も夥しいと記録している。

 6月29日は、殿様の城中見回りで二十間櫓から着見櫓までを普請奉行、作事奉行が案内した。奉行らは櫓の下に平伏し、小野らは、御宝蔵後ろの方に下伏した。その後、殿様は、西の丸で武装した足軽67人をご覧になり、11月10日には、足軽鉄砲隊の射撃訓練を、御用米矢場で上覧されたと記録している。

 10月3日には古城山(佐和山)で、藩主らによるまつたけ狩りがあり、小野らはその準備に出向いている。大洞弁財天から船着き場、弁財天からお茶所までの道筋を掃除し、松茸を入れる桶や美しく飾ったかごを数か所に配置した。そのあとの10月6日には、目付や奉行に山でまつたけ狩りをしてもよいと許しが下り、里根山に役所から酒や豆腐などの料理を送っている。

 12月28日には、両奉行と親戚に歳暮に行き、31日には役所で25匁をいただく。そして、正月の年賀、鏡開き、お役所開きとつづく。


日記は未来への贈り物
 今回は1年分を読み解いたが、いつ、どこで、だれが、何をしたかが簡潔明瞭に書かれている。地図に記入していけば大変おもしろいだろう。日記はまだまだ続くが、先読みした範囲では、善利川の出水、堤防の補修、中山道の本陣で大名行列を迎える準備、藩内各地の街道と山林の検分の記載も見えた。
次回が楽しみだ。

 ところで、小野・助三郎・正好は、文化8年(1812年)から200年後に、彼が書いた「諸事日記」を私たちが読むとは、想像もしていなかっただろう。日記はただの記録ではなく未来への贈り物なのだ。(By E.H.)


次回は、

足軽辻番所サロン「芹橋生活」32

「官事録」を読む(2)

 母利美和さん(彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)


今回の続きで、普請役手代の小野正好が書いた文政7年(1824年)からの公務の記録を読みます。

平成24年7月22日(日)10:30-12:00
芹橋二丁目足軽屋敷太田邸
資料代 100円

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by hikonekeikan | 2012-07-10 23:58 | 辻番所・足軽屋敷

よみがえれ!辻番所・足軽屋敷

よみがえれ! 辻番所・足軽屋敷

                                  足軽辻番所サロン・芹橋生活27
 

d0087325_10164615.jpg 2012年2月19日(日)午前十時より芹橋二丁目足軽屋敷太田邸で開催されたサロンでは、「旧彦根藩足軽組辻番所および組屋敷(辻番所、旧磯島家住宅)の保存修理工事の概要」について、彦根市教育委員会文化財課の深谷覚さんがお話をされました。

 足軽組辻番所・旧磯島家住宅は、辻番所を併置した足軽屋敷で、日本で唯一の現存例とみられます。
 平成20年、取り壊しの危機にあった建物を守るため、彦根景観フォーラムはトラスト運動を市民に提案し、集まった寄付金を彦根市に寄付しました。その後、市によって買収され、平成21年2月彦根市指定文化財となりました。現在、この建物の機能を回復させ足軽の生活様式を伝える文化財としての保存を図るとともに、住民の皆さんが活用できるように保存修理工事が進められています。
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 深谷さんは、芹橋の位置や関係する都市計画の法令、足軽組屋敷の特徴、組屋敷の建物の構造や配置等について解説され、その後、建物の解体と発掘調査の状況を写真で詳しく説明されました。
 そして、新たにわかってきたこととして5点を挙げられました。
1.旧磯島家は、江戸期以後、ほぼ2回の増築・改変がされている。
2.辻番所と旧磯島家は、現在はつながっているが、建築当初は別棟であった。
3.旧磯島家の外壁は、中塗りで仕上げられ、内部のトオリニワ壁面は荒壁で仕上げられていた。
4.旧磯島家のナンドの押入れ部分は増築されたもので、当初は開口部が設けられていた。
5.旧磯島家のカマドの位置も増築にあわせて位置が変わった。

今後は、後世の改変部分を復旧し、耐震補強を施して往時の姿に再建される予定です。
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by hikonekeikan | 2012-05-06 10:22 | 辻番所・足軽屋敷

辻番所の新しい見方 足軽辻番所サロン・芹橋生活26

 足軽辻番所サロン・芹橋生活26
 12月18日(日)10:00~11:30 太田邸


 「足軽組の組織と掟」
  -善利橋12丁目鉄砲40人組の事例から-


  母利 美和  (彦根景観フォーラム理事・京都女子大学教授)

d0087325_2143193.jpg 市民トラスト運動によって解体をまぬがれ、現在は彦根市によって解体修理中の芹橋12丁目の辻番所。江戸時代にその辻番所を有していた善利橋12丁目の鉄砲40人組のルールブック「御組(おんくみ)歴代(れきだい)規矩(きく)留帳(とめちょう)」が母利先生によって解明され、当時の足軽組の組織と運営の枠組みが明らかになった。

善利橋12丁目鉄砲40人組とは
 発祥は、天正18年(1590年)上野国で海老江庄右衛門を物頭に鉄砲20人組として成立し、慶長9年(1604年)以後、彦根城下町の整備に伴い善利橋12丁目に移転、元和元年(1615年)足軽20人を加増されて40人組となり、明治まで続いた。
 12丁目の通りに面して全員が住んだとの説もあったが、近年、12丁目の北側の一部を除いた36戸と11丁目西側の6戸を加えた42戸であったことが判明した。組内に矢場(鉄砲の射撃場)と辻番所を設け、射撃の流儀は「田布施流」を代々継承していた。
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足軽組の組織
 足軽組を率いる「物頭」は、足軽より身分が上位で、別の場所に居住した。足軽組には、藩からの下級役人である「手代」2名が配属され、組に居住して物頭の代理を務めた。したがって、足軽組は40人の足軽と2名の手代で構成された。
 また、足軽は10人で「小屋」という組をつくり、各組に2人の「小屋頭」をおき、計8名の小屋頭の中から1人が「年番小屋頭」となった。さらに、「世話番」が小屋ごとに2名指名され、年番小屋頭のもとで運営の実務を担った。年番小屋頭は足軽間の負担の均等化や矢場・辻番所の運営、小修繕、相互扶助などの実施責任者であり、自治組織を統括した。同時に会計責任者でもあり、世話番から2名を「帳元」に指名し、会計実務を行わせた。
 こうした組織と運営ルールの枠組みの中で、42人の足軽と手代、その家族、武家使用人が、個々の生活を営み、それぞれの思いを持ちながら人生を生きていた。

物頭と手代の役割
d0087325_21555224.jpg 今日の日本では、企業や団体などの職業組織と地域社会のコミュニティ組織がほぼ完全に分離している。しかし、農村という言葉が象徴しているように「農業」という職業と地域は一致している時代が長かった。江戸時代の彦根藩では、兵農分離が徹底し、兵は都市内で身分別に居住地が区別されていた。足軽は藩の軍事組織の末端であった。

 物頭-手代-小屋頭という組織と運営ルールは、この職業組織の一部とみることができる。この組の歴代物頭は、初代から236年間で23人が交替している。激戦を経てきた初代物頭が42年、二代目も30年近くその地位にあったが、平和な時代になると一部の例外を除いて長くて10年ぐらい、短いと1、2年で交替している。実は、これでも交替は少なく、他の組では同期間に60名くらいの交替があった。

 手代は、江戸詰の交替・継合の願書、跡目相続、跡養子、妻縁組、隠居、改姓の願書、休暇願、庭方・普請方などへの下役勤務願、不始末による身分伺いなどが足軽から手代宛てに提出されると受理し、物頭に報告した。また、新参の足軽が物頭の所に出向く新参見分に付き添うとともに、養子相続で足軽となったものは手代自身が見分した。正月12日の矢場開きでは、射撃競技「御帳前打(おちょうまえうち)」で「中附」(あたりつけ:命中率を記録する役割)を行うほか、鉄砲や道具の管理もしたが、自身は鉄砲を持たない完全な文官であった。

 小屋頭は、足軽組の「御備」に設けられた10人の組合小屋の頭と位置づけられ、御上から「組の行状諸事取締」が役目とされていた。そして、組の惣代として物頭の屋敷にお礼や応答のため伺うこととされていた。


年番小屋頭と世話番の役割
 コミュニティ組織の色彩が強いのが、年番小屋頭-世話番である。その特徴は、自治組織を統括する年番小屋頭(年番)が1年ごとに交代する点である。

 年番が1年単位で引き継ぐ帳面には、諸渡り方定帳(江戸詰、京都使、多賀大社警備などの手当てを渡すための実績帳)、月々御扶持定帳(毎月の扶持の台帳)、元入帳・同年中払帳(組への収入と支出の出納帳)、諸虎口帳(他国への護衛等の当番と実績の記載帳)、組済祝儀銀帳(新入、結婚、番上がりの際の祝金の収入帳)、大講定帳・元払帳、連判借り諸帳面(建物修理費などの返済金の年賦帳)などがあり、さらに、矢場や辻番所の道具類も預かった。 
 組の会計には監査制度があり、正月11日に年番の家で小屋頭全員が揃って、平足軽から選ばれた中年衆と小屋頭下3人に元帳・払帳を見せて1年分の勘定を確認し、次の年番に送るようルール化されていた。

 世話番は、年番に相談のうえで買い物をし、年番から金銭を受け取って支払い、それを年番が勘定帳に記載した。勘定は月締めで、翌月1日に年番のところに世話番が寄合い、本帳へ収支を書き写し、残り銭を翌月送りとした。宝暦頃からは、帳元が年番から元帳・払帳を預かる方式になり、必要により年番から金を受け取り支出し記録した。

足軽組自治組織による運営
 年番が引き継ぐ帳面の中に、「諸虎口帳」がある。平和な時代、足軽は、江戸詰、辻番、火消当番、護衛、領内の米見、舟への同乗、土木工事、建築工事への動員などの様々な役儀を勤めた。「虎口」とは、順序を定めた名簿に役儀を勤めた場合●の星を付けたものを指し、用務ごとに「虎口」が作られ、組全体にかかる「虎口」は年番小屋頭が管理した。これは、輪番制による足軽の負担の均等化が狙いとみられる。
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 組単位で支給される支給米を分配する場合も、虎口による当番制で勤めた。御切米は小屋ごとの虎口による切米番が、月々御扶持方は手代、普請方引人を含む42人の虎口によった。また、矢場、辻番所に土地を提供した足軽が広さに応じて年貢を受け取ること(矢場年貢、辻番年貢)もルール化された。さらに、米の換金を共同で行う売米は、1俵につき俵銭3文を世話人に渡すことと定められていた。

相互扶助と共同意識
 御組歴代規矩留帳には、足軽が病死したり仕置で隠居の場合、家族に月1斗5升の情扶持方を42人が援助する、世帯を持つ足軽夫婦が病死の場合、香典は1貫文とするなど、相互に扶助することを規定していた。また、「大講」の方法も規定していた。「大講」は、42人全員が講員となって一定の積立を行い講員またはそれ以外にも貸付と返済を行う金融扶助制度で、その益金は組の共同借金の返済などにも充てられた。

 これらの規矩は、誰がいつ作ったのかが不明で、古来からの継承と表現され、問題が生じれば「一統で相談の上」決めるとして、自治による決まりであることを強調している。さらに、今は新参者でもいずれ小屋頭になるので、組全員がルールを守り、組を存続させていくことが重要であると記載している。

 相互扶助の制度は今日の自治会では廃れたが、年番制度は、自治会でも寺や神社の運営組織に伝わっている。その主眼は、地域共同体の維持であり、そのために構成員の負担の均等化と全員一致が重視される。民主的で平等な半面、短期間で責任者が交替するため変化に対応しにくいというコミュニティ組織共通の側面がある。

辻番所の新しい見方
 御組歴代規矩留帳では、辻番所は「御普請出人衆の番所」とされ、仕来を聞き合わせ勤めることとされている。土木工事等への動員と思われるが、動員は2人と定めており、もし辻番の時に3日連続で動員されれば、別に1人応援をだすとしている。また、火事や出水の時は小屋頭の4人が辻番所に残って警戒し、他の4人が鉄砲組全体を率いて消化や水防に出動すると決められていた。 
 辻番所に備える道具は、寄棒2本・薬研2舟・石臼・皿桶・石持棒・大綱1・紐綱1・虎皮(こひ)1さき、夏は蚊帳1張、提灯1張などとされ、辻番所での細工は敷物を持参すること、畳の上でしてはいけないと決められていた。
 
 辻番所は、これまで城下町に侵入する不審者の見張り場と思っていたが、これは職業組織の視点からみた役割であり、自治組織の運営という新しい視点からみると、自身番夜回りの順番を辻番所に張り出したりして、さまざまな組の行事や運営が行われた中継点・事務所とみることが可能なように思われた。
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歴史に学ぶ防災リスクへの対応
 もう一つの注目点は、大火事の後、彦根藩が苦しい財政状況の中でも足軽屋敷の板屋根を瓦屋根に変えた歴史的事実だ。これは、現在でも同じ教訓が通用する。つまり、彦根藩は、通路を広げたり、建物を間引いたりして類焼を防ぐのではなく、建物の耐火性能を向上させることで火災に対応した。

 歴史的な路地の狭さは、震災時には塀や建物が倒壊し避難路や救助路が塞がれる危険が高いが、建物の耐震性を向上させることでその危険は減らせるし、人命保護等を考えればまず第1に建物の耐震性・耐火性向上が優先されなければならない。そのうえで、背割水路道の活用などを組み合わせれば歴史的路地をまもりつつ防災対策も実現できるのではないだろうか。(by E.H)
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by hikonekeikan | 2012-02-04 19:27 | 辻番所・足軽屋敷

第25回足軽辻番所サロン 芹橋生活 11/20

         足軽辻番所サロン 芹橋生活

 彦根辻番所の会は、足軽善利組の本拠地であったここ芹橋地区で、いろいろな語り手から、歴史を聞き、文化を体験し、生活の移り変わりを語り合う場を、足軽辻番所サロン「芹橋生活」として開設しています。
  参加料 資料代100円
  定員30名 駐車場はありません。駐輪場のみ
  芹橋2丁目足軽屋敷 太田邸

第25回 11月20日(日)10:00~11:30 

  江戸時代、彦根の女性の旅 
     ―自芳尼「西国順拝名所記」から―


  青柳 周一 さん(滋賀大学経済学部附属史料館教授) 

 安政元年(1854)、彦根に住む「自芳尼」という女性が、72日間に及ぶ旅に出た。彼女は、善利橋四丁目の彦根藩足軽・柴田惣次の妻であった。この旅の中で、自芳尼は西国三十三所の札所巡りを中心に、伊勢神宮や、高野山ほか紀州の名所、そして四国の金毘羅にも足を伸ばしている。自芳尼の旅日記である「西国順拝名所記」(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)を用いて、江戸時代の女性の旅について読み解いてみよう。

主催 : 彦根辻番所の会、NPO法人彦根景観フォーラム
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by hikonekeikan | 2011-11-17 01:21 | 辻番所・足軽屋敷

若者はまちぐらしが好き! 若者集団と地元団体と大学が手を結ぼう

d0087325_1020191.jpg若者はまちぐらしが好き! 若者集団と地元団体と大学が手を結ぼう

 若者に“まちぐらし”を    吉田玲奈(よしだ れな)さん

   第17回足軽辻番所サロン芹橋生活
   11月21日(日)10:00~ 足軽屋敷中居邸



 寒い、暗い、不便、プライバシーが守れないと否定的に考えられてきた木造の町家。若者はワンルームマンションでないと住んでくれないとばかりに、彦根市芹橋地区でも多くの町家が壊され集合住宅や駐車場に変わっている。
 だが、当の若者達はどう思っているのだろうか。

まちぐらし集団CHOBO
d0087325_1115649.jpg 吉田玲奈さんは、滋賀県草津市生まれ。京都建築専門学校建築科、伝統建築研究科を卒業し、現在は京都建築専門学校よしやまち町家研究室主任研究員で、二級建築士事務所「日暮手傅舎」の代表、さらに京都銭湯部の部長でもある。
 一緒に来られた中村侑介(ゆうすけ)さんも、東京の大学を卒業後、京都建築専門学校で学んだ若者で、二人はまちぐらし集団「CHOBO」(ちょぼ)のメンバーだ。


 CHOBOは、京都市文化財マネージャー育成講座一期生の若者4人で結成された「若者による若者ためのまち暮らしを提案・応援・発信する」集団で、まち暮らしを「町暮」(CHOBO)とタイトル化し、「若者が地域に参加しながら町家暮らしを楽しむライフスタイル=まち暮らし」としている。
 (http://chobo.kyotolog.net/)

ワンルームの孤独
 吉田さんは、「まちづくり」には「上から目線」を感じるという。そこで、水平目線で、まず自分たちでまちに住んでみて、若者が地域に根付きながら町家暮らしを楽しむライフスタイルから「まちづくり」をはじめた。キーワードは「若者」だ。
 京都には学生が多い。しかし、古い町には若者が住んでいない。京町家に惹かれ住みたい若者は多いが、現実はワンルームマンションしか選択肢がない。そして、ワンルームの現実は、孤独な「部屋暮らし」である。学校とバイト先あるいは職場以外の「人とふれあえる居場所」が欲しいと思っている。
 ところが、空き町屋は、不動産業界や大家さんにとっては“お荷物”扱いだ。古いので手がかかる、低家賃しかとれない。したがって、賃貸市場に出てこないのだ。

町家の魅力・まちぐらしの魅力
d0087325_10255577.jpg 吉田さん達には、町家は「シンプルで洗練された造りの素直な建築」と映る。特に、傷みが発見しやすく直しやすい、指導を受ければ住み手が参加して補修できることが大きな魅力だ。これに対して現代住宅は、厳密な構造計算や品質管理を前提にして、住み手が補修に参加することを想定していない。
 また、改修の過程で職人の技と知恵に触れられること、木、土などの自然素材だけで美しい家が造れるおどろき、素材のすべてが再利用できる究極のエコ住宅であること、6~7万円で広い家が2人でシェアできることなども魅力だ。そして最大の魅力は、町家に住むことでまちの人と仲良くなれることだ。

地域の一員になれる町家の力
d0087325_10272250.jpg 吉田さんが、CHOBOのメンバーが借りている町家を紹介してくれた。
 京都市下京区の伝統木造二階建町家、庭付きで風呂なし。二人でシェアしている。この町家は、自分たちで改修し自己負担20万円、大家負担20万円となったが、敷金、礼金なしで、決して高くない。
 ここでは、早朝の路地の清掃と水まき、夜には火の用心の拍子木を鳴らす当番が6日に1回まわってくる。地域の役割をもつことで、地域の一員になり住民とのふれあい、顔のわかるおつきあいができるようになり、自治会の運動会や地蔵盆にも参加している。これが町家の最大の力だ。
 中京区のY邸。伝統木造平屋建で風呂なし。家賃4万円で、2人でシェアしている。ここは、傷みが激しく壊して駐車場にしたいが壊すにもお金がかかるという大家を説得して、自分たちで大改修を実施。3ヶ月の期間と改修費50万円がかかった。そして、美しく再生された町家に心から満足して暮らしを楽しんでいる。

「町家若人の宴」を開催 
 CHOBO自体は、建築家集団で特殊かもしれない。
しかし、CHOBOは、関心の高い若者を集めて「町家若人の宴」を連続開催し、まちぐらしの魅力の共有と暮らしのノウハウの伝達を進めている。d0087325_1028239.jpg
 第1回は、「集まれ若人! 町家若人の宴」で町家に関心のある15人程で立ち上げた。第2回は、「町屋に住みたい 若人集まれ!」で、町家ぐらしのススメの講演を聞き、町家で鍋パーティを行った。第3回が「町家の冬の過ごし方・火鉢講座」で、寒い冬に暖をとる火鉢の使い方、火起こし体験、火鉢の楽しみとしてのお餅焼きや串焼きを楽しんだ。第4回では、「市中の山居で火と暮らす・七輪講座」と題して、町家の庭で七輪バーベキューを楽しんだ。市中山居とは茶室、茶庭の理想を示す用語だが、その転用も含めて全体が実に新鮮だ。

リフォーム、シェア、自動車と若者
 吉田さん達には質問が相次いだ。
 「古い町屋をリフォームしてくれる業者がいないのでは?」という質問には、「地元で長年続いてきた工務店なら大丈夫。不動産屋に相談すると建替を勧められるようだ」と答えられた。
 「町家を二人でシェアするのは、プライバシーなどの問題がないか」という質問には、「ルールを決めて、ルールを守るように最初に決めておけばふすま1枚でも大丈夫。お互いの気配を感じる方が楽しい。」という答だった。
 「町家でも自動車が持てないと若者は離れるのではないか」という質問には、「街中では自動車は持たない若者が多い。維持費の負担が大きいので嫌われる。」と回答された。

地元まちづくり委員会の役割
d0087325_1031988.jpg 「若者は町家や地域の人間関係にあこがれるが、地域の方が若者をうるさいとか行儀がわるいとか、近所迷惑だとかで受け入れないのではないか。」という意見があった。
 これには、吉田さん達を足軽辻番所サロンに招いた笠原さんが、彦根市に隣接する豊郷町で、滋賀県立大学の学生グループが空き蔵を借りて改造し自分たちで住む「とよさと快蔵プロジェクト」の事例を紹介した。
そこでは、地元住民が主体的に「豊郷まちづくり委員会」をつくり、若者に空家を貸したり住民とのトラブルを仲介して問題を解決する受け皿となり、お祭りや空き農地の活用、子どもとお年寄りのふれあいなどでそこに住む若者達と一緒にまちづくりを進めている。

大学の力
d0087325_10315442.jpg さらに参加者からは、滋賀大学経済学部や滋賀県立大学、聖泉大学、ミシガン州立大学連合日本センターなど4千人を超える学生がいる彦根でも、町家や古民家を再生すれば学生の需要が期待できること、イギリスの大学などで古民家を大学が借りたり買ったりして大学院生に6人程度のシェアハウスとして貸し、伝統的建築物の保護と財産価値の保全を両立させている事例などが紹介された。

 「若者集団」と「地元まちづくり委員会」と「大学」。この3つのつながりが、彦根地域、なかでも芹橋地区のまちづくりのキーワードになりそうだ。(By E.H.)
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by hikonekeikan | 2010-12-24 01:17 | 辻番所・足軽屋敷

路地を活かしたまちづくり 笠原 啓史 2010.7.18

足軽辻番所サロン  @芹橋二丁目太田邸 2010年7月18日(日)
 路地を活かしたまちづくり
     -大阪・空堀地区の事例を通して

                   笠原 啓史 (彦根景観フォーラム会員・建築家) 

都心回帰、まち暮らしの復権へ 
d0087325_0555416.jpg 今回の講師の笠原さんは彦根出身で大阪で建築設計事務所を営む。
 彼は、旭森学区で育った。当時は、まちはずれの田園地帯で、小学校の生徒数も少なく、城西小学校や城東小学校といったまちなかの小学校と対抗試合をすると、人数も多く体格も優れていた相手に常に負けて、くやしい思いをした。
 ところが、その後、郊外に新しい住宅団地が次々とできる一方、中心市街地は人口が減少し小学生の数が激減した。いわゆる中心市街地の空洞化と、郊外へのスプロール化が進んだのだ。
 そして、いま大阪や東京では、高齢化した世代を中心に都心への回帰が始まっている。郊外の宅地を売って中心市街地にマンションを買う人が増えている。いずれ彦根でも、まち暮らしの復権がはじまるだろうと笠原さんはいう。
 今回の辻番所・足軽サロンは、こうした時代の趨勢を見通し、路地の再生というテーマで大阪・空堀の事例を通して芹橋のまちづくりを考えてみた。

路地とはなにか 
 一口に路地といっても、その成り立ちは様々だ。
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 大阪/空堀地区は、瓦土の土取場跡を長屋として開発した地域で、表通りに面した長屋の後ろに建てられた裏長屋への通路が路地として残ったものである。戦前に立てられた長屋が戦災を免れ、バブル期にも開発されず、今も裏長屋と路地が残る。
大阪暮らしの今昔館には、空堀地区のジオラマが展示されている。

 京都の路地は、平安京以降貴族や武士の大きな屋敷区画を、幾度か分割して小路をつけ屋敷を建て、さらに短冊状に分割して京町家特有の土地利用をする通路として形成された。

d0087325_0393727.jpg  東京向島の路地は、関東大震災による罹災者が流入し、農地に長屋が一斉に建築され、従来のあぜ道が路地になってしまった。


 これらに比べると、彦根芹橋の路地は、江戸初期に足軽組屋敷地として計画的に作られた町割りによって生まれた路地であり、他の地域と較べると非常に合理的で袋小路も少ない。



大阪空堀地区のまちづくり
 路地の魅力は、以下の三つである。
 ①車が通らないヒューマン・スケールなまち
 ②私(プライベート)と公(パブリック)な部分が混ざり合う中間領域
 ③路地を介した人間関係・コミュニティの醸成。暮らしのルールを学ぶ場である。

からほり倶楽部
 では、空堀地区で長屋・路地を活かしたまちづくりを進める「からほり倶楽部」の活動を紹介しよう。
 活動は、解体、売却されようとしていた長屋を請け負った地元建築家が、家主を説得し、解体費を改修費に使い、再生した長屋を分割して店舗に貸すサブリースによる長屋再生事業を始めたことから本格化した。長屋再生事業は、複合文化施設「萌」、お屋敷再生複合ショップ「練」・長屋再生複合ショップ「惣」を生み出している。
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 このような活動の前段階には、からほりのまちの魅力をみんなに伝えようと2000年から始まった「からほりまちアート」がある。毎年10月に、地元商店街の協力を得て開催されてきた。
 さらに、民間が主導で展開し、地域と行政の連携による修景事業HOPEゾーン事業として新しい展開を見せている。からほりは、大阪でも、気楽でまちあるきを楽しめるまちとして人気が上昇している。


つながりを生かすまちなみ
 からほりのまちづくりのテーマは、「お地蔵さんが見守る つながりを生かすまちなみ 「時代」と「世代」、そしてこころのつながり 」(空堀地区HOPEゾーン協議会 まちなみガイドラインより)である。
さらに、まちづくりには、3つの方針がある。 
①昔ながらの建物は、特色を生かしながら今の生活に合わせて大事に使い、次世代に引き継ぐ。
②新しい建物は、昔ながらの良さを取り入れてまちなみとつながりを大切にする。
③先人から受け継がれてきた路地の雰囲気や、お地蔵さんなどまちに残る文化を大切にする。
 この方針にもとづき、まちづくり事業が行われている。そして、優れた建物や取り組みには、からほり推奨建物見つけ隊!が建物を評価し顕彰している。(HOPE事業)

路地の課題
 路地には、次の3つの課題がある。
①既存不適格建築物: 路地に面した建物は、接道がなく、建築基準法に違反するため建て替えができない。このため、無理な増改築により避難通路をふさがれてしまったりして、防災上問題となっている。
②防災上の不安: 超過密で、袋小路が多く逃げられない。 これは、道が狭いだけでなく建物の耐火性が低いという問題も関係している。こうした防災上の問題を人の和で補おうとしている地域もある。
③大規模開発の波: すぐ近くまで大きなビルが迫り、異質な賃貸アパートが突然建てられたりする。良質な集合住宅との共存を探る必要がある。
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まとめ
 芹橋は、大阪や東京の路地と比べると、計画的につくられた良好な住宅地で、しかも路地の歴史的な価値が高いことは大きな特徴だ。

 まちづくりは、建物だけが大事ではない。住むに値する暮らしが大事だ。過去にとらわれず未来に向けて本当に幸せな暮らしとはなにか、それを実現できるまちはどのようなまちかが問われている。

 最後に、 21世紀型のまちづくりは、課題解決型から価値創造型へ転換する必要がある。20世紀型のまちづくりは、牽引型リーダーが、一つの価値観にもとづき、課題解決型でまちづくりを進めた。すなわち、現状を否定し、一つの理想である、より機能的・効率的なまちに向かって、全く新しくまちをつくる方式だった。そのやり方が行き詰まっている。
 21世紀型のまちづくりでは、支援型リーダーが、多様な価値観の調整を図り、価値創造型でまちづくりを進める。すなわち、現状を肯定し、地域の宝物を活かしながら新たな価値を付け加え、まちを磨いてゆく方式である。

 本当に幸せな暮らしとは何かをテーマに一人一人が思いを語り合い、コーディネーターが人々の思いをつないで、みんなが主体的に、幸せなまち、美しいまち、温かなまちという価値を手作りしていく。そんなまちづくりが、路地をめぐって始まっているのではないだろうか。      (by E.H.) 
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by hikonekeikan | 2010-08-03 01:05 | 辻番所・足軽屋敷

彦根芹橋のまちづくり 青木 仁  2010.3.30

彦根芹橋のまちづくり基本戦略の提案  
                       東京電力株式会社技術開発研究所 青木 仁

まち路地再生のデザイン 
 近世城下町の町割りを残す彦根には、歴史遺産である狭い路地をどう保全し再生するかという課題があります。近年、生活空間として価値が見直されている「路地」の再生。この点に注目して、青木 仁さん(東京電力技術研究所主任研究員)が2010年3月30日(火)滋賀大学産業連携センターで、芹橋まちづくりの新たな基本戦略を提案をされましたので、紹介します。

脱クルマ時代の「理想のまち」
d0087325_15205345.jpg 今日の日本で「理想のまち」として開発・販売されている「まち」は、新築一戸建て住宅やマンションにクルマで直接乗り入れられ、郊外の大規模店舗や公共施設、職場などにクルマで出かける郊外型ニュータウンです。
 しかし、このクルマのための道路を優先したまちづくりは、交通事故や渋滞、犯罪、コミュニティの崩壊、環境問題、公共投資の負担増などで限界に達し、人口減少・高齢社会の到来とあわせて、「コンパクトなまちづくり」の必要性が叫ばれています。

 青木さんは、脱クルマ時代の「理想のまち」を、
①クルマが低速で控えめにしか走行しない「信号機のない町」
②小さな建物と小さな庭の組み合わせからなる「緑と寄り添うまち」
③路地によって構成される「住む人、道行く人の顔が見えるまち」、
④小さな店が、そこここにあるまち、
⑤住み・働き・訪れる人と、人々を包み込む風土、人々を満足させるコンテンツとそれを支える地域の文化や歴史が大切にされているまち 
 と考えています。

 こうしたまちには、低速で公共性と環境性能の高い移動手段が必要です。そして、既存のクルマ優先道路を人が安心して歩ける道と新交通手段に分割して再生するとともに、まちの構造も、歩くことを基本にお店や公共施設を配置する必要があります。 こうした新しいまちづくりは、ヨーロッパで部分的に実現しつつありますが、日本ではこれからといえるでしょう。

芹橋のまちの構成上の特性
 彦根市芹橋町は、近世の特徴をそのまま残しているまちです。その特徴は、次のようなものです。
①9尺幅(2.7m)の路地が網目のようなネットワークを作っている
②50坪のコンパクトな敷地で、分割も可能である
③800を越える敷地群が集合している

 これらの特徴を、新しい「まちづくり」の視点からみると、「脱クルマ時代のまちの先駆け」、「郊外ではなく都心への居住回帰の先駆け」、「コンパクトシティの先駆け」となりうる条件が備わっていると言えます。
 江戸期のまちが、「環境と持続可能性を備えた21世紀のまち」のモデルとなり得ている点は不思議です。周回遅れのランナーがいつの間にかトップランナーになっているのです。
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芹橋まちづくり基本戦略
 こうした特徴を踏まえて、青木さんは、芹橋のまちづくりの基本戦略をつぎのように提案されました。
①路地:現状幅員の維持
  現状の2.7mの幅員を維持しつつ人に優しい生活空間として改善することで、脱クルマ時代のヒューマンなまちの先駆けとして全国に発信できる。

②敷地:コンパクトな敷地規模の維持+更なる敷地分割
  路地とコンパクトな敷地群によって構成されるまちの構造を維持することで「人に優しい」安心・安全な空間が生まれ、それがまちの魅力になる。
 コンパクトな敷地と敷地分割により、少ない費用で個性的な都市型住宅、小型店舗、飲食サービス施設などがさまざまに立地できる。これらの機能がエリア内に点在することによって路地を介した回遊性が生まれる。

③建物:個別の建物の防災性能などの強化
  修復、建て替え更新、リフォーム、リノベーション、コンバージョンなどのさまざまな手法による個別建物の省エネ・環境性能、防災性能の強化、美しい外観の創造、現代の建物の躯体の耐火性能は大幅に向上しており、法善寺横町(大阪市)の再生では、道路幅2.7mで、4m同等の耐火性能を実現した。

④庭の維持・確保と庭路樹などによる緑化の促進
  住宅や店舗の前面に庭を設け、そこに植樹して沿道敷地の樹木が路地を緑化する。かつては、見越しの松などの景観が形成されていた。


芹橋の現状と課題
 青木さんの提案を聞いて、芹橋の住民の皆さんや市役所、彦根景観フォーラムで話し合いを行いました。
 まず、芹橋の現状は、路地が狭く軽自動車の通行もギリギリの状態であるため現在の生活には不便で、火災時の消防車の進入にも不安がある。その反面、路地は、高齢者や子どもには安全で、安心して歩いたり遊んだりできる空間である。
 芹橋は、早い時期から不在地主による賃貸住宅が多く、老朽化した建物が更新できないため、空地、空屋が増えている。また、住民は、教師、銀行員、サラリーマンが大半で、高齢化が進んでいる。市の中心部でありながら若い人が出て行って空洞化が進んでいる。
 これに対して、どういうまちを目指すのか手探りの状態であることなどが、報告されました。
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焦点は電柱移設による路地の改善
 芹橋では、電柱の地中化がまちづくりの一つの大きなテーマとしてあげられています。
 このメリットは、クルマが通行しやすくなる。景観がよくなることです。
 一方、デメリットは、電柱に較べて設置コストが10倍、維持管理費も大きいため、公的負担がないと電力利用者負担になる点、地下から電線を住宅に引き出すのに特別な設備が必要になる点、災害復旧に電柱以上に時間がかかる点などがあげられました。

 この問題は、路地の改善と密接につながっているため、市役所と住民と彦根景観フォーラムでさらに勉強会を持ち、建築や都市計画の制度の把握、実際に暮らしている住民のニーズの明確化とその実現方法の検討、新しく芹橋に住みたいというターゲット像を明確にすることなどを含め、全体的に検討することが提案されました。(文責:彦根景観フォーラム 堀部 栄次)
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青木 仁 氏の紹介
 1978年東京大学工学部建築学科修士課程修了。建設省(現国土交通省)、世界銀行、都市基盤整備公団等勤務を経て、現在、東京電力技術開発研究所主席研究員。主な著書に、「快適都市空間をつくる」(中公新書2000)、「日本型まちづくりへの転換-ミニ戸建て・細路地の復権」(学芸出版2007)、「まち路地再生のデザイン-路地に学ぶ生活空間の再生術」(共著:彰国社2010)

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by hikonekeikan | 2010-05-04 15:31 | 辻番所・足軽屋敷

歴史的景観を活かしたまちづくりセミナーの報告 

歴史的景観を活かしたまちづくりセミナーの成果 
         芹橋二丁目のまちづくりを提案する

第11回「まちの活性化・都市デザイン競技」受賞作品発表会
d0087325_23512359.jpg 江戸期から続く歴史的景観を生かしたまちづくりのあり方を考える「歴史的景観を活かしたまちづくりセミナー・第11回まちの活性化・都市デザイン競技受賞作品発表会」(彦根市主催)が1月24日(日)、彦根市の四番町スクエア・四番町ダイニング多目的ホールで開催され、彦根藩足軽屋敷が残る芹橋二丁目地区を対象に3団体が提言を発表しました。

 
 セミナーでは、西村幸夫 東京大学教授(第11回「まちの活性化・都市デザイン競技」審査委員長)が「路地からのまちづくり」と題して、近年脚光を浴びてきた路地の重要性について基調講演を行い、その後、芹橋二丁目を対象にした昨年の「まちの活性化・都市デザイン競技」(都市づくりパブリックデザインセンター主催)で、入賞した作品が発表され、最後に西村教授による講評が行われました。


時代の変化と「路地」からのまちづくり
d0087325_23523912.jpg 基調講演では、西村教授が、倉敷、鞆の浦、葉山、法善寺横町、東京下町、イタリアなどで路地の保全・再整備が行われ、巨大商業ビルにも路地を模したモールが整備された事例を紹介され、クルマが入らず不便で防災面でも問題があると否定されてきた「路地」が、今後は、歩いてゆっくり暮らす豊かな文化のまちづくり、安全でヒューマンスケールのまちづくりの原点になると指摘されました。
 また、この先百年は、クルマにすべてを合わせる社会から、路地の豊かな文化を生かせる、人間に合わせた移動手段が主流になるのではないかと述べられました。
 さらに、建築基準法では最低4mの道路幅がないと建物の建築を認めてこなかった経過があり、その結果、建物が老朽化して防災性能が落ちている点について、2,7mの路地を認めた42条3項の規定を積極的に活用し、建物の防災性能を上げるなどの工夫をすべきだと述べられました。


テーマは「歴史的まちなみと現代生活の両立」
 その後、3団体によるまちづくり競技提案の発表に移りました。
 今回の競技テーマは、現代の生活に対応した住環境の形成と歴史的なまちなみの保全の両立であり、具体的には、足軽組屋敷の町割りの特徴である1間半(2.7m)の路地が重要な原風景の一つと評価される反面、自動車が進入しにくく、生活に不便であり、介護や防災などの活動が制限されること、その結果として人口が減少し、住民の高齢化が進んでいる、建物が老朽化し、空地、空家が増えているという現状をどう改善し、まちを活性化していくかという課題です。

d0087325_23533222.jpg 最優秀となった国土交通大臣賞の「明日軽まち」(中垣純一ほか4名 玉野総合コンサルタント(株))では、交通・防災面の改善が最も重要との視点から、保存する区域と再整備する区域に分け、6m幅の生活道路を曲げながら地区を横断、一部を南北に延ばす形で影響を最小限に留めるルートで整備し、空地も含む柔らかい土地区画整備で推進するという提案でした。


d0087325_23541152.jpg まちづくり月間実行委員会会長賞の「城守人の町」(川崎泰之ほか6名 大成建設(株)設計本部)は、まちづくりは「人」が最も重要との観点から、交通・防災面は現在の路地を部分改良するにとどめ、散策コースや観光施設の整備により観光地として訪れる人を増やし、そこから定住人口を増やしていこうという提案でした。



d0087325_012418.jpg 彦根市長特別賞の「芹橋足軽組地保存計画」(土屋敦夫ほか2名 滋賀県立大学人間文化学部)は、歴史的に土地所有者の変化が少なく区画割りの変更も少ない点を重視し、区画の大きさや商店街と近接している立地から住宅地としての再生が最も有利であり、路地の改変は電柱の撤去程度にとどめ、柱や門による修景、新築建物の外観規制を導入しようという提案でした。


異なる3つのまちづくり
 西村教授は、講評で、次のように述べられました。
 今回は課題が明確なのに、視点によって導かれる解決が全く違う結果になった。これは、芹橋という地域が持っている個性や奥の深さと、それを見る提案者の歴史認識の違いがそうさせたと言える。どの案も、夢物語ではなく現実のまちづくりとして真剣に向き合っているプロらしい提案だった。
d0087325_23555128.jpg  それぞれに優れており、どれがよいという講評はできないが、3つの提案に共通する部分がある。2.7mの路地を42条3項道路として認め、条件をつけて建物を改築していく。景観ルールを決める。空地を積極的に利用していく。これらを取り入れて、プロの力を利用しながら歴史遺産を活用したまちづくりを推進して欲しい。


「ひこにゃん」登場 
 このあと、各受賞グループに、「ひこにゃん」から記念品が手渡されるというニクイ演出があり、受賞者は大喜びでした。



西村教授を囲むまちづくり茶話会

 セミナーの終了後、足軽屋敷中居邸に移動し、芹橋の住民、彦根景観フォーラム会員などで約一時間程度、「西村教授を囲むまちづくり茶話会」を行いました。d0087325_0172759.jpg

 住民の方から、住民同士で合意が成り立ちにくい中で何からまちづくりを始めたらよいのかなどの問いかけがあり、西村先生や参加された滋賀県立大学、滋賀大学の先生方から金沢市、今井町、京都市などのまちづくり実践現場の知恵などを含めて的確な助言をいただきました。
  

その結果、概ね次のようなことが整理できました。

①路地再整備と景観協定をセットに
 狭い路地で最も問題となっている電柱については、高コストの地中化ではなく、屋敷の裏側の背割り水路側へ移設して通りやすくし、2,7mを確保する、同時に地域外の方が芹橋の土地を買い周囲の景観とは調和しないアパートや個人住宅を建てられる現状に対して市役所と協働して景観計画にもとづく景観協定を土地所有者などで結び景観保全を行っていく、これをセットにして一つの通りだけでも実現し、良くなることが目に見えるように進めていく。

②芹橋まちづくり宣言
 路地の向こうは自治会が違うという行政区画になっており情報共有が困難になっている、土地だけを持っていて住んでいない人が多いなどの課題があるが、手を尽くして克服していく。そのためにも、住民にひろく呼びかけ「芹橋まちづくり宣言」を行う。

③何のためのまちづくり
 まちづくりのめざすものは、路地を活かした住民の暮らしの改善であり、住民が誇れるまちの歴史の継承である。これを基本に防災や交通対策を考える。住民のためにまちづくりをするのであり、個人で来られる観光客は歓迎するが、大量の観光客やサービス施設を呼び込むことにならないように慎重に対応する。

④古民家再生のしくみ研究
 所有者が他の土地で暮らしていて土地と空家だけが残り、建物が老朽化して壊さざるを得ない案件が多い。それでは手遅れであり、早めに実態を把握し壊さずに新築より安く改修して販売または賃貸する手慣れた建築家と買いたい人・借りたい人に紹介する組織を、市・県、建築士協会などと協力して研究する。先行事例として、倉敷の古民家再生トラスト、京都市の京町屋作事組、京町屋再生研究会などがある。
                                      (文責:堀部 栄次)
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by hikonekeikan | 2010-01-29 00:32 | 辻番所・足軽屋敷

足軽辻番所サロン 芹橋生活の再開

第8回 足軽辻番所サロン 芹橋生活 のご案内

 日時 11月15日(日)10:30~12:00
 場所 芹橋二丁目4-56 太田邸
       (辻番所修復工事のため、しばらく他の足軽屋敷をお借りします)

 テーマ 彦根城下町の江戸期再現CG(コンピュータ・グラフィックス)
      足軽辻番所の修復について


 語り手 谷口 徹 さん(彦根市文化財課長)
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by hikonekeikan | 2009-11-10 22:55 | 辻番所・足軽屋敷