NPO法人 彦根景観フォーラム

カテゴリ:談話室「それぞれの彦根物語」( 118 )

談話室「それぞれの彦根物語」2013.2.16

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by hikonekeikan | 2013-05-07 10:40 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2013.3.16

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「読んでもらえる文章のつくり方 3つの方法」 をご紹介します。 
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by hikonekeikan | 2013-03-28 10:04 | 談話室「それぞれの彦根物語」

もう一度、彦根城へ行こう

それぞれの彦根物語98

佐和山城と呼ばれた彦根城

                          中井 均  滋賀県立大学准教授
                          平成25年2月16日 ひこね街の駅・寺子屋力石


 ときおり雪が激しく降る朝、彦根市花しょうぶ通りにある寺子屋力石に入ると、暖かい空気と、古民家特有のほの暗さを生かした美しい灯り、それに照らされた絵画が浮かび上がり、ほっとした。さっそくコーヒーを注文して席を探したが、中高年の歴史ファンや大学生、高校生で既に満席だった。
d0087325_111093.jpg この日は、中井均・滋賀県立大学准教授が、彦根城の築城の歴史と城郭としての魅力を紹介された。
 先生は、中世の城館や山城の考古学的研究の第一人者だ。室町末期に勃興した地方領主が数々の紛争をへて戦国大名の体制に編成され、やがて武力統一されて徳川幕藩体制にいたる時代に、各地の山中に築かれ消えていった山城。それを見い出し、測量し、遺構から元の姿を推定して、近世の城郭に至る歴史的価値を解明されている。テンポよく、楽しそうに語られる姿は、まさに「歴史探偵」というにふさわしい。各県の山城の魅力をわかりやすく伝える著書も多数あり、「彦根城を極める」という本も出版されている。
 戦国ブームの今、「旬の人」である。その人と、これほど身近に語れるのは、「それぞれの彦根物語」ならではの魅力だ。


彦根城が佐和山城と呼ばれた?
 中井先生は、まず、彦根城が、佐和山城と呼ばれていた事実を紹介した。佐和山城は、関ヶ原の戦いで徳川方の井伊家には敵であった石田三成の居城であり、関ヶ原の戦いの数日後に落城している。ところが、19世紀の制作とされる「大日本五道中図屏風」では、彦根城を描いたうえに「佐和山城」の名前が書かれている。これは間違いでかたづけられるのだろうか? 謎解きは、物語の最後に用意されていた。


佐和山城から新城築城へ
 佐和山城は、慶長5年の関ヶ原の戦いの戦功により、井伊直政が徳川家康より賜った城である。佐和山城の二の丸には土佐殿丸、三の丸には越後殿丸の名前が残っていて、井伊家の重臣木俣土佐と中野越後の屋敷があったことを示している。つまり、佐和山城は、井伊家にとって重要な歴史の一つなのだ。
 その後、慶長8年(1603年)、彦根山に新城築城が決定する。慶長9年7月1日より第一期普請が始まった。当時は、徳川対豊臣の最終決戦への軍事的緊張が高まりつつあり、豊臣方の大阪城に対する前線基地として築城が大急ぎで行われた。工事は、幕府から派遣された公事奉行により指揮され、7か国12大名が動員される「天下普請」であった。
d0087325_124225.jpg やがて、大阪冬の陣、夏の陣が終わり、平和な時代が訪れる。元和2年(1616年)頃から、第二期普請が行われ、大名井伊家の居城として整備された。天守閣とともに山の上にあった本丸御殿は、麓の表御殿に移された。また、表門も京都、大阪を正面にした京橋口方面から、中山道を正面とした佐和山口方面に変わった。戦争の時代から平和な武家儀礼の時代へと築城方針が転換したのである。


城郭としての魅力と謎
 こうした歴史をもつ彦根城の城郭としての魅力を、中井先生は五つあげた。
 一つめは、山城(軍事的な防衛を目的とする空間)と表御殿(居住、儀礼を目的とする空間)の二つが一緒にある構造である。
 二つめは、巨大な2つの堀切の存在。これは、太鼓丸と鐘の丸の間、西の丸と出曲輪の間にある。
 三つめは、鐘丸(かねのまる)の丸みを帯びた陣地。当時の技術では円形の石垣を作ることは不可能だったが、ここで120度の曲線を描いた石垣をつくることに成功、井伊年譜には「その縄張りは城中第一」と称賛されている。設計者は、早川弥惣左衛門であり武田流築城術の流派とみられる。
 四つめは、5本の登り石垣(竪石垣)と竪堀の存在。これは、豊臣秀吉が朝鮮に攻め入ったとき、朝鮮半島南部に築かれた倭城(わじょう)で初めて造られた、山上と山下を一体化して防御する施設で、日本では他に伊予松山城と淡路洲本城にしかない。 
 五つめは、天守が大津城の材木や瓦を転用していることがほぼ確実になったことである。第一期の天下普請は、急を要する中で行われたため、他の建物や石垣も転用した材料が用いられたと思われるが、どこの何を用いたのかは依然として謎である。特に、石垣は各大名が分担していることから石に大名の刻印があるのが普通であるが、彦根城では一つも見つかっていない。また、佐和山城の石垣を徹底的に破壊して彦根城に転用したと言われるが、佐和山の岩盤はチャートであり、一方彦根城の石垣は、ほぼすべてが湖東流紋岩であって、一致していない。


彦根城の新しい魅力の生かし方
 彦根城といえば、国宝の天守と国指定名勝の玄宮楽々園が観光スポットとして取り上げられてきた。しかし、彦根城の軍事施設としての特徴、政治の場としての特徴もきわめて魅力的だ。中井先生によると、最近になってようやく、石垣や堀切、竪石垣などの土木的な構造や、櫓や桝形などの建築物の機能について一般の人々の関心が寄せられるようになったという。各地の山城をめぐるツアーも、徐々に人気が高まっている。
 ただ、彦根城の場合、城の縄張りや石垣、櫓をめぐるガイド・ツアーは、これからというところだ。「彦根城に来たら、天守閣だけでなく、巨大な堀切と櫓により攻め手を罠にはめ、殲滅しようとする構造にも注目してほしい。だって、天守閣は、藩主も一生に一度登る程度で、実はめったに入らない建物だったのだから。天守閣の廊下が黒光りしているのは、後世、たくさんの観光客によって磨かれたからです。」と中井先生は会場を笑わせた。
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彦根城下町エコ・ミュージアム構想
 天守や庭園、華やかな大名文化へのあこがれの時代から、石垣や堀切、櫓などの城郭プランへの関心の移動、この線をもっと延ばしていくと、城下町の魅力を生かすというテーマにたどりつく。
 彦根は、何もなかった低湿地に新しくつくった都市で、都市計画に身分や経済が組み込まれている。それが現代にまで残っている点が大変珍しい。その魅力に注目して保存と活用をしようというのが、彦根景観フォーラムが提唱する「彦根城下町エコ・ミュージアム」構想だ。
 身分と機能によってエリア分けされた地域ごとにサテライトとなる「歴史的建物」を保存し、その周辺に「発見の小径」を巡らせて、サテライトを移動しつつ、城下町の生活の過去と現在を体感してもらう「生きた城下町博物館」をつくろうという構想である。
 城郭を巡ったら、ぜひ城下町も巡ってみよう。彦根とその周辺は、天守や御殿などの政治的中心部、軍事的な城郭、暮らしと経済が息づく城下町と農山村や漁村、宿場町を配した近世都市構造の典型といってもよい地域である。こうした農山漁村を含めた全体を視野に入れた紹介施設「コア・ミュージアム」も望まれる。しかし、観光の最大の喜びは人と人との交流である。地域の人々の歴史を大切にした生き方がそのまま博物館になる。地元の人の笑顔には、どんなに立派な博物館もかなわないだろう。


歴史は作られる!
 最後は、彦根城が佐和山城と呼ばれた謎解きである。
 中井先生は、徳川将軍の行動を記録した公式記録『徳川実記』などに、将軍が彦根城を訪れた際、頻繁に「佐和山」着と書かれていることを明かした。そして、もう一度「大日本五道中図屏風」を見てみると、美濃加納城が、廃城となったはずの「岐阜城」と書かれているという。つまり、新しい名前はいまだ普及せず、旧名が使われたのだ。おなじような事例では、松本城は深志城、福井城は北ノ庄城と江戸期前半は呼ばれていたという。
d0087325_152040.jpg 何か肩すかしにあったような印象を受けるが、少し考えてみよう。なぜ彦根城の名前が佐和山城ではおかしいと思ったのだろうか。それは、二つの城が敵対関係にあるという思い込みがあったからだ。市民は、石田三成の統治の影を払しょくするため、井伊家が佐和山城を徹底的に破壊し、自らの権力を示す彦根城を築いたという物語をどこかで聞いている。 
 しかし、中井先生によると、井伊直政は家康より佐和山城を賜ったのであり、佐和山城は井伊家にとって吉祥の城なのだ。だから、佐和山と呼ばれても抗議しないし、上野国高崎藩から移転した菩提寺である龍潭寺を井伊家の墓所とせず、清凉寺を佐和山の麓に創建したのだという。
 こうなると、何が正しい解釈かは不明である。ただ、歴史は幻想なしには見られないということは言える。歴史はつくられる。だからこそ物証が必要だ、と先生は言いたかったのかもしれない。


情熱の言葉
 中井先生の話はおもしろい。私たちの無意識の先入観を揺さぶる新しい視点を与えてくれる。しかし、このおもしろさは、それだけではない。
d0087325_154829.jpg 彦根藩が作成した「御城内御絵図」を示しつつ、山裾部を5~7mも垂直に切り落として兵が登れなくした「山切岸」を指して、中井先生は「私はここが特に好きなんです。お城の入場券売り場の横からこの垂直の山切岸をみると、一日見ていても飽きません。私以外は誰も見ていませんが・・。」という。鐘丸では、「普通の観光客は鐘丸に入ってすぐ天秤やぐらの方に行かれる。鐘丸の丸みを帯びた石垣沿いをニコニコして歩いている人を見たら私と思ってください。」といい、大手門から登りの道を経て、桝形の手前からみる天秤やぐらの写真を映写して、「ここが彦根城では一番美しいと思うんです。敵が門を突破して桝形に入ったとたん、天秤やぐらの2階建の窓から一斉に鉄砲で撃つ。そのためだけに作られている。余計な窓は一切ないんです。そんなすごい景色なのに、この電柱と電線が邪魔なんです。市がいずれ、なんとかしてくれると信じていますが。(笑)」という。
 自分つっこみで聞き手を笑わせると同時に、「好き」「美しい」などの情熱あふれる言葉が強い共感を生んでいる。


彦根城の木を切る
 会場からは、質問が相次いだ。その中に、いま、彦根城の石垣の上の木を切り倒しているが、これは石垣を崩れやすくするのではないか。また、長い歴史のある貴重な木を切ってよいのかという質問があった。
 中井先生は、即座に、木の根が石垣を崩す原因になっていると答えた。現在の樹木のほとんどは、明治期以降のもので、江戸期には松以外の樹木はなかったのではないかと思う。市の検討委員会で、生物的に貴重な樹木や生態系上重要な植物を残し、石垣に悪影響を与える樹木だけを切っているので、ご理解いただきたい。桜も昭和12年に植えられたもので、本来城にはなかったと述べられた。
 そういえば、天守閣や天秤やぐら、着見櫓の高い石垣が、市街地からもよく見えるようになった。冬は特によく見える。この機会に、カメラをもって彦根城の城郭としての魅力を体感してみたい。(堀部栄次)

次回は、
平成25年3月16日(土) 10:30~12:00
彦根市花しょうぶ通り 寺子屋力石


「それぞれの彦根物語」99

NPOで学んだ、読んでもらえる文章術

堀部 栄次 彦根景観フォーラム理事、きらっと彦根編集人 

 講師は、このブログを書いている私です。私が、どういう方法で、この文章を作っているのか、3つのポイントをお話しします。いわゆるサラリーマンの私が、NPOの広報担当となり読んでもらえる文章を書くために、試行錯誤したエピソードと、見つけた文章術は、あなたにも参考になると思います。よろしければ聞いてください。
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by hikonekeikan | 2013-02-28 00:54 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.12.16

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by hikonekeikan | 2013-01-16 17:57 | 談話室「それぞれの彦根物語」

鍾馗さんを探しにまちへ出よう 

鍾馗さんだけじゃない、屋根の上は「宝の山」

それぞれの彦根物語96 
   鍾馗さんを探しにまちへ出よう 

        鈴木達也  まち遺産ネットひこね、彦根景観フォーラム会員

                       2012/11/17  @ひこね街の駅・寺子屋力石

いま、屋根の上がおもしろい!
 ときおり降っては止む秋雨の中、「それぞれの彦根物語」の会場である寺子屋力石は、現在の店主のセンスが加わり、日々、美しさを増しているようだ。2年前の正月に火災にあい、その後、多くのボランティアの協力と市民の寄付で応急再興された建物とは、正面から見る限り、思えない。
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d0087325_23371390.jpg 今回は、「まち遺産ネットひこね」の鈴木達也さんが、初公開の「ひこね鍾馗さんマップ」とマップを使ったまち歩きイベント「鍾馗さんを探しにまちへ出よう」を紹介された。

 鍾馗さんは、「それぞれの彦根物語91」で、「鍾馗さんにはかなわぬ、波兎(なみうさぎ)」と引き合いに出されるほど人気が高い。鈴木さんによれば、彦根市内には70体ほどの鍾馗さんが確認できるが、マップには中心市街地の歩ける範囲にある15体をのせている。まち歩きイベントは、11月24日(土)14時に宗安寺前から出発する。「鍾馗さんを探せ」の著者小沢正樹さんも来られ、解説されるという。

 実は、当日は参加できなかった。そこで、翌日、実際にマップを持ってまちを歩いてみた。すると、これは、鈴木さんの話以上に面白い。彦根の屋根の上には、鍾馗さんだけでなく想像もできなかった沢山の宝物が載っているのだ。あまりのおもしろさに、翌日も町を歩いた。こんな「宝の山」を見逃していたなんて・・。
 
まち遺産ネットひこね
 鈴木さん達が活動している「まち遺産ネットひこね」は、彦根市男女共同参画センター「ウィズ」の学習会で知り合った歴史好き5名で結成された。そして、全国の歴史遺産めぐりを楽しむうちに、彦根のまちなかに残る歴史遺産のすばらしさに気づく。
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 代表の尾田英昭さんは、「身近な暮らしの中にある歴史遺産である「まち遺産」を掘り起し、そのすばらしさを多くの人に知ってもらい、まち遺産の保存と活用を図りたい。」と、活動のねらいを語られた。
 その活動である「ぶらひこね」プロジェクトは、まちなかに隠れている歴史遺産を発見し広く紹介するマップづくりから始め、まち歩きイベントによって、多くの方に実際に現地を巡って楽しんでもらおうというもので、2012年の湖東地域定住自立圏「地域創造事業」に採択されている。
 
鍾馗さんとは何か?
 鍾馗さんは、中国生まれの道教の神様である。唐の時代に実在した人物といわれ、科挙試験に不合格になり自殺してしまうが、高祖皇帝に手厚く葬られた。後に、病に伏す玄宗皇帝の夢枕に鍾馗が現れ、玄宗を悩ませていた鬼を退治した。病から回復した玄宗皇帝は、夢に出てきた鍾馗の姿を絵に描かせ、祀ったという。
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 このような伝説から、鍾馗の姿が魔除けとして信仰を集めるようになり、日本では、文化文政年間に、京都のある女性が病気になった時に、向かいの家の恐ろしい鬼瓦のせいだということになり、鍾馗さんの置物を屋根に載せたところ病気が治ったという話が伝わる。
 年代確認ができる最古の瓦製の鍾馗さんは、文政11年(1828年)で、近江八幡市のかわらミュージアムに保存されている。

ひこね鍾馗さんマップ
d0087325_23532132.jpg 鈴木さんは、「ひこね鍾馗さんマップ」を手に、中心市街地の鍾馗さんを紹介した。
 花しょうぶ通りの「とばや旅館」の玄関屋根から通りをにらむ鍾馗さん。登り町グリーン通り商店街の結納屋・中村松寿堂には、奥の民家の門、主屋の屋根の両端、蔵、離れと5つの異なる鍾馗さんがある。長松院前の民家には、不思議な造形の鍾馗さんがあり、長松院の北側には、昭和初期にご主人を病気から救った鍾馗さんが長松院をにらんでいる。宗安寺の周辺にも寺をにらむ3体があり、その一つである奥野医院では20年前に鍾馗さんが屋根に置かれたという。その近所には、明性寺をにらむ鍾馗さんが2体ある。

 一方、中心市街地以外では、市南部の蓮台寺町蓮台寺前、日夏町正福寺前、石寺町名願寺前、本庄町光明寺周辺などの民家の屋根で見つかっている。
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彦根は鍾馗さん分布の北限?
 屋根の上の鍾馗さんは、京都を中心に、滋賀、奈良、大阪、三重、愛知に分布するのみで、関東や四国、九州ではわずかしかない。滋賀では、湖東・湖南に広く分布し、湖北・湖西ではほとんど見られない。彦根以北では、米原市にわずかにあるが、長浜市の市街地では、一体も確認されていない。彦根は、鍾馗さん分布の北限といっていいようだ。

d0087325_055444.jpg 彦根の鍾馗さんは、お寺の近くにある。お寺の屋根の立派な鬼瓦は魔除けの役割を果たしているが、鬼瓦によって除けられた魔が近くの民家にふりかかってしまう。これをはねかえすために、お寺の近くの民家に鍾馗さんが置かれているのだ。
 設置場所は、市街地では屋根のてっぺんが多く、造形は型から起こした量産型が主である。これに対して、集落部では、お寺の周辺のみにあり、設置場所は屋根のてっぺんに限らず、お寺に向けるのに最適の位置が選ばれている。さらに、造形は個性的で一品生産のものが多い。

 これを京都の鍾馗さんと比較してみると、京都では、お寺とは関係なく、たくさんの町屋に置かれており、その数は3000体ぐらいといわれる。1階部分のひさしの屋根に置かれ、寺ではなく通りに向いている。造形は、量産型が多い。

 鈴木さん達の調査では、滋賀県の大津の市街地も京都と同じである。ところが、奈良県の奈良町は彦根と同じで、屋根のてっぺんに置かれ、お寺の方向を向いているものが多い。さらに、通りがT字形に交差する突き当りには、魔が溜まりやすいといい、「突き当り鍾馗さん」が設置されている。

鍾馗さんの謎
 ところで、鍾馗さんはいつごろ、誰によって作られたのであろうか。
 鈴木さん達の聞き取りによると、現存する彦根の鍾馗さんは、ほとんどが明治から昭和にかけてのものだ。同じ型から作ったと思われるものと、瓦職人手作りのものがあるが、松原の瓦屋、大垣の瓦屋、敏満寺などで作っていたという。

 なぜ、足軽屋敷地にはないのかという質問があった。これは、武家や町人という江戸時代の身分に由来するのではなく、そもそも武家地にお寺がないことが原因らしい。さらに、分布が近畿や東海の一部に限られているのはなぜか、なぜ、彦根以北にはないのかという疑問が出されたが、これは謎のままだ。
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鍾馗さんを使ったまち歩きの可能性
 鍾馗さん探しのおもしろさは、宝探しのおもしろさだ。屋根の上で小さくて見つけにくいだけに、見つけられると楽しい。普段は歩かない路地を歩くため、まちの奥深さが見えてくる。さらに、感性が研ぎ澄まされ、普段は気づかない町屋の細部にも気づく。たとえば、船町の古い舟倉の屋根にのる大黒様、長曽根の教善寺前の民家の鬼瓦に描かれている宝船にも気づくようになるという。

 このようなおもしろさを観光とまちづくりの両方に生かそうとした先進例がある。「長崎さるく」、「大阪あそ歩」がそれで、40から150のコースを開発し、市民ガイドが500円から1000円の協力金をいただき、奥深いまちの魅力を案内する。鈴木さん達は、「大阪あそ歩」に参加してみたが、観光客より地元の人の方が多かった。地元の人が、それまで気づかなかったまちの魅力を初めて知ったという声が多く聞かれたという。

 鈴木さん達も、まち歩き観光をめざしている。そのメリットとして、既存のまち遺産を再発見し活用できること、彦根城・ひこにゃん依存の観光からの脱却が図れること、多様なコース設定により何度でもひこねを訪れて楽しめることをあげられた。

彦根城外堀マップも
d0087325_059336.jpg 「ぶらひこね」プロジェクトでは、「ひこね鍾馗さんマップ」につぐ第2弾「彦根城外堀マップ」が予定されている。12月20日に彦根市民プラザで開催される歴史手習塾「彦根城の外堀今昔」で、初めての公開となる。いまは完全に埋められている彦根城外堀、鈴木さん達はどんなまち遺産を見つけたのか楽しみだ。

 まち遺産のすばらしさに気づき、その楽しみを伝えたい、残したいと思い、具体的なプロジェクトにまとめ上げて、資金を獲得し、仲間を募って、活動する。そのことによって地域のさまざまな課題を解決していこうとする。市民活動やNPOの理想的な姿をみたようで、すがすがしい気分になった。彦根景観フォーラムも協力できればと思う。


屋根の上は「宝の山」
 では、私が見つけた屋根の上の宝物の一部を紹介しよう。初めは、鍾馗さんだ。これは、小さな希少種で「ひこね鍾馗さんマップ」の助けがないと到底発見できない。宗安寺の鬼瓦と鍾馗さんがにらみ合っている姿には、なんともいえないユーモアを感じる。鬼瓦にはね返され、鍾馗さんに睨み返された魔はどこへ行くのだろう?
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 次は、鬼瓦だ。長曽根町の三連倉で、彦根物語91以来探していた波兎をついに発見。その隣の倉の屋根には巨大魚が。
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 しかも、裏に回ってみると屋根の両端でデザインが違う波兎と巨大魚が見つかったのだ。
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 鈴木さんの紹介された船町にある古い船蔵倉庫の屋根の恵比寿さんと大黒さん。
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 その隣の家の屋根にも宝物が。タイをもっているので恵比須さんだろう。屋根の反対側のこれは何か? 頭巾からみて寿老人かもしれない。すごい迫力だ!
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 同じような古い船蔵倉庫が松原町にある。行ってみると、なんと恵比寿さんと大黒さんが載っているではないか。しかも、表情が違う。
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 魚屋町の商家の屋根にも恵比寿さんと大黒さんが載っているのを発見。これらは、商家や倉庫の屋根につけられ、商売繁盛を願ったもので、屋根の上の産業遺産と言える。
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 そういう意味では、これも屋根の上の産業遺産かも?
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 もうひとつ、家族遺産というべき鬼瓦もある。
 井桁は井伊家の家系か? 扇の家紋もある。 再生された尾末町の池田家長屋門の2枚矢羽の家紋。

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 次は、長の字のつく屋号?。これはどう読むのかわからないが、ユニーク。最後はSR。これは我が家の祖父が大正時代にカナダから帰国して家を建てた際に作ったもの。SRは名前のイニシャルである。

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シティ・ウォーカーの心得
 屋根の上は、あまりにもおもしろい。たちまちハマる。
 しかし、上ばかりに目が行って、前や足元を見なくなるので、自動車や自転車、側溝には注意が必要だ。できれば、2人以上で歩くことを勧める。
 さらに、もう一つ注意しなければならないことがある。屋根の上の宝物を探す貴方は、他人からみれば不審者に見える。特に家の所有者にとってはただ事ではない。家の人がおられたら声かけしよう。わかってもらえる場合もある・・。 (堀部栄次)
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by hikonekeikan | 2012-11-29 22:45 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.10.20

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by hikonekeikan | 2012-11-01 14:35 | 談話室「それぞれの彦根物語」

「がらたて」から豊饒なる言葉の海へ

それぞれの彦根物語94

 「がらたて」考  

           金子 孝吉  滋賀大学教員、ひこね景観フォーラム監事

               2012年9月22日 @ひこね街の駅・寺子屋力石

「がらたて」の不思議
d0087325_18481027.jpg 「がらたて」と聞いて、それが何かわかる人は、滋賀県の彦根市と湖北地方にしかいない。それにしても、「がらたて」とは不思議な響きだ。なぜ「がらたて」というのか?いろいろな人に聞いたが誰にもわからない。
 ところが、同じものを彦根市に隣接する多賀町では「ぼんがら」という。わずか数キロ離れているだけで、なぜこんなに違うのか?「ぼんがら」とは何を意味するのか?

 滋賀大学教授で彦根景観フォーラムの監事でもある金子先生は、この言葉を初めて聞いた時「がらくた?」と思ったそうだ。普通の人は実物をみて、これが「がらたて」かと一応の納得をするのだが、金子先生はそれだけでは終わらなかった。詳しく調べていくうちに、たった一つの言葉から尋常ならざる豊かさと複雑さをもつ方言の大海へ導かれていった。


「がらたて」の正体
d0087325_18552112.jpg 「がらたて」とは、小豆あんを、米粉または小麦粉で作った皮で包み、サルトリイバラの丸い葉ではさんで、蒸してつくるお餅だ。金子先生は和菓子というが、地元の感覚ではお菓子というよりお餅だ。
 彦根や湖北地方では、主に初夏の季節に農家や民家で作られ、食べたり、贈り物にされていた。今では家庭で作ることはめったになく、和菓子屋で通年売られている。
 素朴でとても美味しいお餅で、彦根景観フォーラムと多賀クラブでは、多賀里の駅・一圓屋敷で「ぼんがらもち」づくりを企画したことがある。

 今回の彦根物語では、「がらたて」とは、サルトリイバラを指す方言であること、同じサルトリイバラを指す方言が尋常とは思えないほど多くあること、サルトリイバラの葉で包んだお餅や団子・まんじゅうは、西日本を中心に各地に見られるが、その地方ごとの呼び名もまた非常に豊かで複雑であることがわかった。
 さらに、東日本には、サルトリイバラではなく柏の葉で包む「かしわ餅」文化圏があることもわかった。西日本の人間の感覚では、「かしわ餅」はお菓子だが、「がらたて」はお餅だ。


サルトリイバラという植物
d0087325_18561493.jpg 「がらたて」という言葉の由来となったサルトリイバラとは、どのような植物だろう。
  「原色牧野植物大図鑑」によると、「ユリ科で、日本、台湾、朝鮮、中国に分布し、山野に生えて木質のつるでよじ登る低木。まばらにとげがある。葉は丈夫な革質で光沢がある。花は春から初夏に咲き、後に径7~9mmの果実を結ぶ。西日本では葉をモチを包む時に使い、根茎は薬用になる。和名猿捕りイバラは、トゲがあり猿がひっかかるところからいう。」とある。
 毎月第1土曜日朝9時からの多賀里の駅・野鳥の森植物観察会でもおなじみの植物だ。


サルトリイバラの方言の豊饒さ
 金子先生の頭の片隅には、「がらたて」が居座っていた。あるとき、大学図書館で別の本を探していた先生は、本棚の片隅にある本の列に呼ばれたという。それが、『日本植物方言集成』(八坂書房編 2001年)だ。ここには、日本の全国各地にみられる植物の多様な方言が記録されていたが、サルトリイバラの項には「いが 山口(美祢)大分」から始まり「わんごろめ 三重(志摩)」まで340種類が記録されている。そのなかには、「がらたて 滋賀」、「ぼんがら 滋賀(彦根)」とあるが、いまひとつ実態と合わない。

 そこで、白井翔平監修『全国方言集覧』【動植物標準和名→方言名検索大辞典】(太平洋資源開発研究所編)にもあたった。ここにも、各県別に膨大な数の方言が記載されていたが、「がらたて」は、彦根市、犬上郡、伊吹町、「ぼんがら」は彦根市、犬上郡、愛知郡とされ、さらに彦根市や坂田郡、高島郡などの県内では、ガラタチともカラタチイバラとも呼ばれていることもわかった。

 ここから、金子先生は、サルトリイバラの方言の数々の由来を推測するのだが、その迷宮にはとてもついていけない。一つだけ紹介すると、サンキライとは、山帰来に由来し、中国にある漢方薬の山帰来と混同したもの、サルトリイバラは根に薬効があるとされる。また、猿嫌い(とげがあることから猿が嫌う)に由来するかもしれないという。


決定的な発見・「がらたて」の語源
 「がらたて」がサルトリイバラの方言に由来するらしいと知った金子先生は、今度は、日本の文学作品の中を探した。

 伊勢物語六十三段「つくも髪」に、在原業平という超モテ男に恋した白髪の老女が、業平の家をのぞき見て勘違いされ、あわてて「うばら、からたち」に引っかかるのもかまわず家に帰り、業平の来るのを待ったとある。また、枕草子一四七では、名前がおそろしいものとして「むばら。からたち。」とある。建礼門院右京大夫集一四八には、「むばらからたち」に引っかかって藪の中に逃げ込んで、逃げのびたという記述がある。謡曲「忠信」には、源義経を追って、「いばらからたち分けつ潜りつ、」京にたどりつくとある。 

d0087325_18584058.jpg そして、「彦根古絵図」(滋賀大学経済学部付属資料館蔵)に、「彦根の地、往古はイバラガラタチ相ましはり、山も陸も沼も一面にして」という決定的な書き込みがあることを、金子先生は発見する。
 今度も、先生は古絵図に呼ばれた気がするという。

 ところで、「むばら、からたち」と2つの言葉が一緒に出てくるが、「むばら」は「いばら」の古語で、「からたち」は、現在の「からたち」(ミカン科カラタチ属)を含むがそれよりも広い概念で、ノイバラやサルトリイバラを指していたと考えられるという。

 江戸時代の文献では、平賀源内「物類品しつ」宝暦13年(1763年)で、サルトリウハラ 近江讃岐方言カラタチ、伊勢方言カンクチとあり、越谷吾山「物類称呼」安永4年(1775年)でも、サルトリウバラ サルトリノ花 近江讃岐にてカラタチというと記述されている。つまり、江戸中期には、近江・讃岐において「からたち」という呼び方があったということである。「がらたて」は、「からたち」が語源である確率が高まった。「からたち」が「がらたて」へ発音が変化し、お餅の名前になったことは、十分考えられる。
 なお、「ぼんがら」の語源については、盆の後の日(群馬県)、盆の終わりの日(栃木県)、盆の団子の残ったものなどの意味を、先生は推察されている。 


サルトリイバラとかしわ
 サルトリイバラの葉で包んだ餅は、西日本に圧倒的に多い。東日本ではカシワの葉で包む「かしわ餅」が多い。西日本ではカシワの葉がなかったのか?というとそうではない。金子先生の調査によると、食べ物を上に盛ったり、それを包む葉は、みな「炊ぐ葉・かしわ」と呼ばれたので、サルトリイバラが使われた餅も「かしわ餅」の一種だった。
 サルトリイバラを用いるのには、別の意味があった。それは、サルトリイバラの葉がもつ薬効性・防腐力、香りが人に霊的な力を信じさせたからだ。そして、端午の節句から田植え儀礼、お盆にかけて、健康増進・疲労回復を願ってたくさん作られ、贈り物にもされた。


サルトリイバラの葉で包んだ餅の方言
d0087325_19125550.jpg さて、このサルトリイバラの葉で包んだ餅(団子、まんじゅう)には、餅を包むときに1枚の葉で包む場合と、2枚ではさむ場合がある。餅の中身、形も多様である。同様に様々な呼び名がある。彦根では、「がらたて」、「小麦だんご」、湖北は「がらたて」だが、「からたちばっぱ」もある。多賀町は、「ぼんがら餅」だ。

 ここから、金子先生の驚くべき調査が再び始まる。文献で調べるだけでなく、全国各地の和菓子店に行って聞いている。例えば、三重県松阪市の笹屋は「いばらまんじゅう」、尾鷲市みのや製菓舗は「おさすり」、愛知県江南市大口屋は「あんぶさんきら」、大府市鶴屋吉祥は「いばら餅」、同市げんきの郷では「麩まんじゅう」、島根県浜田市「かしわ餅、麦まき(いずれもサルトリイバラの葉を使用)」、広島県は「しばもち」、岐阜県御嵩町は「がんどしぼち」、茨城県は「ばらっぱもち」など、実に楽しそうにお店でのやりとりや、どこの「がらたて」がおいしいかという穴場情報などを話された。

 調査の結果、意外なこともわかってきた。湖北地方のある店の「がらたて」は人気が高くよく売れているが、その製造元は岐阜県にあり、滋賀県の湖北地方向けにのみ大量に作られている。岐阜では「がらたて」は売れないという。
 また、販売用に使われるサルトリイバラの葉は、ほぼすべてが中国からの輸入品で「サンキラ葉」という名前などで店に卸されている。広島や山口、愛媛のスーパーでは、サンキラ葉だけが売られていることもあるという。こんなところにも「葉っぱビジネス」があり、国際化しているのだ。甘い「がらたて」の話がほろ苦くなった。  (文責:堀部 栄次)
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by hikonekeikan | 2012-10-17 08:27 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.9.22

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by hikonekeikan | 2012-10-01 14:42 | 談話室「それぞれの彦根物語」

政治と行政と市民活動の未来に向けて

それぞれの彦根物語93

彦根の「殿様文化」を打破するには

                        山田貴之さん (滋賀彦根新聞社編集長)

平成24年7月21日
ひこね街の駅「寺子屋力石」

新聞が語る彦根の市民性
d0087325_23242193.jpg あなたが彦根に住もうと家を探しているとき、近所の人から次のような話を聞いたらどう思うだろう?「彦根の住民は、出る釘を打つ性質があるので、何があっても黙って従っていたほうがよい。前例とか順序にこだわって、排他的で傲慢。新住民は5年間発言を認められない。自分の身の回りのことに不満ばかり言って、行政のせいや他人のせいにしてくる。市民がこんな状態だから市役所も何もしない」。
 まさかと思い、「そういうあなたはどうなのですか?何もしないのですか?」と問うと「当たり前だ。誰もが見てみないふりをする。出しゃばって損をするのはバカ者だ」。こんな経験をした人が参加者に3人もいることが明らかになった。

今回の彦根物語の語り手は、山田貴之さん。滋賀彦根新聞社の記者兼編集者である。滋賀彦根新聞は、彦根市と甲良町、豊郷町で約1万部を発行。水曜日、土曜日の朝日新聞の朝刊に折り込まれ、ローカル誌として県政、市政、地域の諸問題、スポーツ、イベントなどの情報を伝えている。

 これまでの彦根物語は、初めに一方的に話を聞き、後で質問するスタイルだったが、山田さんは最初に自らの書いたコラムを参加者に朗読してもらい、それについて参加者に意見を聞き、最後に自分の見解を述べる。これを3回繰り返して、参加者の体験や意見をうまく引き出した。


彦根の殿様文化とは
 冒頭の市民体質を山田さんは「殿様文化」という。彼の書いた2011年8月2日のコラム「殿様文化が続くのか」では、「行政は殿様きどりで、市民は殿様頼りの資質だといえる」と批判している。そして、江戸時代の260年間、彦根藩を治めつづけた井伊家の支配と、昭和28年5月から平成元年5月まで36年間、井伊直愛氏が市長を勤め「殿様市長」と呼ばれた歴史に関連づけている。

 会場からは、市の行政体質として、「上意下達で施策を市民に押し付ける」、「社会の動向に疎く、市民も行政も内向き」、「提案は前例がないというだけで無視される」、「殿様というが、殿様らしいリーダーが不在」、「重要な情報の公開が少ない」などの意見が出された。

 そのなかで、注意を引いたのは、花しょうぶ通りの商店主たちの発言だった。花しょうぶ通りでは平成10年頃からまちづくりに取り組み、儲からないことに力を注ぐバカ者と呼ばれてきた。まちづくりに取り組む以前は、行政批判ばかりで自分たちは何もしなかった。これでは何も変わらないと気づいて、「百の愚痴より十の提案、一の実行」をスローガンに有志で実践してきた。自ら実行しないで批判ばかりする市民評論家が多いが、外からみると市民も市役所も小さなコップの中の争いをしている。変えたいと思い行動する人には未来は変えられるという内容だった。
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岐路に立つ彦根観光協会の危機
 次に山田さんが取り上げたコラムは、2010年3月27日の「観光都市・彦根の街づくりへ『市民の協力が不可欠』」だった。観光振興は、彦根城築城400年祭を契機に、行政主導から市民団体・民間主導に変化しつつあるが、一方で問題も発生しているとして彦根観光協会の問題を紹介された。

 2012年正月号に掲載された故・上田健吉彦根観光協会会長へのインタビューによると、観光協会は、大きな岐路に立っていた。財政難の市から委託される観光イベントがこのまま続けていけるかを問題とされ、行政の下請け発想から、誘客を主体とする民間の発想への転換が必要と上田氏は発言している。しかし、市役所と観光協会で判断がすれ違う点、彦根商工会議所、観光協会、文化プラザ、彦根市の各イベントなどがバラバラで連携がない点、宣伝が下手で、お客様が欲しい情報が伝わっていない点をあげ、諸団体の一体化や着地型観光の充実など観光協会の課題は多いが頑張りたいと抱負を述べられていた。

 ところが、2012年5月の滋賀彦根新聞に掲載された投書で、観光協会の幹部職員4人が相次いで辞職したことが明らかにされた。投書によると、観光協会は市からの委託イベントで手いっぱいで、他市の観光協会が行っている新規観光客の誘致、情報発信、イメージアップ、新商品の」売り込みができない状態にあったが、それでも民間旅行業出身の職員が旅行業免許を取得して独自の着地型観光商品を作り、大手観光業者と組んで独自展開を図ろうとした。

 これが市役所の方針と対立し、まず市役所の天下り幹部2名が引き上げられ、ついで旅行社出身の幹部2名も退職に追い込まれたというのだ。投書は、その原因を、市役所は観光協会を行政の下請けとみており、天下り先を確保するために独自収入を嫌い事業展開をさせないようにしたという。ここに、市役所の官主導体質と傍観者をきめこむ会員の行政依存体質、つまり「殿様文化」が現れていると山田さんは見ている。


殿様文化を打破するためには
 こうした状況は、彦根独特のものではない。日本全体に通じる体質である。こうした体質を変えるにはどうすればいいのだろうか。山田さんは、2011年11月30日のコラム「橋本徹首相待望論」を引用し、公務員制度改革と行政改革を徹底的に進めるリーダーになれる政治家の出現を待望する。

 本来、市民を代表して政策的な意思決定をすべき政治家や地方議会の議員が機能せず、執行機関に雇われた職員の集団である行政に政策形成が支配されている現状を打破しようとしているのが大阪市の橋本徹市長であるとし、彼には、時流に乗った政策を貫く信念と、それを実行する突破力がある。独裁との声もあるが、議論を重ねた上に実現していく独裁スタイルは必要であるとした。

 最後に、山田さんは、彦根では来年4月に市長選挙がある。3年後には市会議員選挙がある。市行政と市議会が生まれ変わり、行政依存体質を打破するには、民間や市民活動の中から強いリーダーシップをもつ首長や議員が出てほしいと結ばれた。
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市場の失敗、政府の失敗、中央と地方の失敗
 この問題を大きな背景から見てみよう。
 私たちの日常は、水道、下水道、道路、学校教育、警察、消防、ごみ処理などの行政サービスに支えられている。また、河川や公園などの整備、農業や商工業・観光の振興、都市計画など地域社会の安全・安心や活性化にも行政は大きく関与している。さらに、準公共サービスには、医療や介護、公共交通、電気やガスなどが含まれる。

 これらの多様で豊富な公共サービスを供給することで、各省庁や地方自治体は、多くの組織と資金を使い肥大化してきた。その結果、深刻な財政危機に陥っている。民間なら破たん・清算となるのだが行政は簡単にいかない。そこで、事業の仕分けによる廃止や民営化、民間手法の導入などの「市場化」が追及されているが、痛みを伴う改革は不人気である。その延長線上に消費税増税と徹底的な行政改革が対比的に議論されている。同時に、肥大化した行政をコントロールできない政治の能力(ガバナンス)が常に課題となっている。橋本徹首相待望論もこうした背景を持っている。

 さらに大きな歴史をみると、近代の産業社会が生み出した貧困や公害、無秩序な開発などの「市場の失敗」を解決するための一つの方法として生まれたのが行政サービスだった。しかし、官僚組織やサービス組織の肥大化などによる「政府の失敗」により、今度は「市場原理の導入」が課題になっている。

 その上、政府=中央官僚行政であった日本には、「中央と地方の失敗」も重なっている。中央省庁が詳細に地域の行政に関与する官僚主導の伝統から、地域の実態や優先順位を無視した政策が生まれた。過疎問題はその典型である。中央官庁は、法令で詳細に基準を決めて、均等であるが画一化したサービスで解決しようとし、市町行政は盲目的に受け入れたが、これは救済ではあっても自立の支援ではなかった。山村に道路、砂防、治山、ダム、造林など多くの公共事業が投入され、水道、下水道、集会所などの生活環境の改善を行ってきたが、人口は減りつづけ高齢化しつづけている。


協働か下請けか
 彦根観光協会は、公益社団法人である。従来の公益法人は、民間団体の形をとってはいるものの、行政の仕事を独占的に下請けし、役員には行政OBが多数就任して、「官益法人」とも揶揄されていた。このため、2007年に公益法人を改革する法律が成立し、官庁による公益性の認定が否定された。

 彦根観光協会は、新しい法律による公益性の認定を受けている。おそらく、新制度に移行したことで、従来の考えと新しい考えの対立が表面化したのだろう。これは、NPOにも共通するが、「協働-パートナーシップ」や「市民と行政の協働」は、容易に「下請け」に変質し、団体自体が行政依存体質に陥る可能性がある。公益の定義が明確ではないだけに、同種の問題はこれからも起こるだろう。問題のカギは「お金の流れ」にある。公益性をもつお金の流れが、行政からの委託金だけであれば、やがては行政の下請け化してしまうだろう。
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政治と行政と市民の非営利活動の関係
 本来の政治とは、対立する考えや利益を調整して集団としての意思を決め、実現することである。そして、行政は、政治の意思決定を実現するために、議会から選ばれた、または市民から直接に選ばれた執行部(市長や知事)の監督のもとで行われる雇われた人たちの集団作業である。

 しかし、現代の大規模化・複雑化した社会の問題解決には、専門家の知見や調査能力が必要で、その結果、政策形成が専門家集団に任せられてしまう傾向が生れた。そして、政策形成の利害の調整や執行の利害調整までもが雇われ人や専門家で行われてしまっている。これは、一面の真実である。専門的な集団の行動を、いかに市民の意思のもとにおくかとなると、政治家の政治家としての能力の向上が必要不可欠になる。山田さんのカリスマリーダー論につながる。

 この問題の解決には、もう一つの側面がある。公益性をもつ仕事は、行政だけが行うのではなく、市民の自主的共同作業でなしうる余地を現代でも多く残しているという点だ。むしろ、行政サービスが解決しえない問題、それは大規模化した社会ゆえに生みだされる個の孤立や家族、地域コミュニティの崩壊などに起因する問題については、政府でも市場でもない市民による非営利活動が最も有効であるといえる。

 われわれは、自分自身で「誰のために」、「何のために」行う公共サービスかを問う必要がある。同時にそれを「誰が実行するのか」、「誰が負担するのか」を問わなければならない。当事者意識をもつ自分化した公共活動こそ、自治の基本だからだ。行政依存は愚痴を生むが、自ら行う非営利活動は自治を生む。(By E.H)


次回は
それぞれの彦根物語94
「ガラタテ」考
金子 孝吉(彦根景観フォーラム監事、滋賀大学教授)

平成24年9月22日(土)10時30分~12時
ひこね街の駅「寺子屋力石」

「ガラタテ」とは、小豆餡を米粉(または小麦粉)製の皮で包み、サルトリイバラの丸い葉ではさんで、蒸して作るもので、彦根や湖北地方などで初夏に食べられている伝統のお菓子です。ガラタテという呼び名の由来やサルトリイバラの葉を用いたお菓子のさまざまな名前の不思議に迫ります。

ひこね街の駅「寺子屋力石」では、美しいランプ展を開催中。その一部を少しだけ紹介します。
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 白洲 千代子展のお知らせ
 ジュエリー作家、白洲千代子さんの展示会を8月18日~9月9日まで、寺子屋力石のギャラリー&カフェ寺子屋で開催。
 近江のかくれ里の美しさを見いだし、深く愛した「白洲正子」。白洲家の孫として今を生きる彼女が紡ぐ「煌めき」。初日と最終日には、白洲千代子さん自身が来られます。

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by hikonekeikan | 2012-08-08 23:12 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.7.21

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by hikonekeikan | 2012-08-08 18:17 | 談話室「それぞれの彦根物語」