NPO法人 彦根景観フォーラム

カテゴリ:談話室「それぞれの彦根物語」( 118 )

談話室「それぞれの彦根物語」2012.6.22

d0087325_13574419.jpg
d0087325_13575650.jpg
d0087325_1358572.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2012-07-09 13:53 | 談話室「それぞれの彦根物語」

平仮名は、美しくなければならない

それぞれの彦根物語92

毛筆・硬筆・・
  活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ 


                           田中貴光さん (書家)

平成24年6月23日(土)10時30分~12時 
ひこね街の駅「寺子屋力石」

d0087325_22231089.jpg 6月の花しょうぶ通りには、早くも夏の日差しが降り注いでいた。しかし、寺子屋力石に入るとひんやりとした町屋特有の涼しさを感じる。
 今日の彦根物語は、書家の田中貴光さんだ。寺子屋力石には、書道を習っていると思われる女性がたくさん来られていた。若い人も年配の人もいる。いつものにぎやかなお喋りとは違い、話し声がおとなしい。隣に座っている若い女性に声をかけてみると、彼女はアメリカ人で、週3日愛知県の企業で働き、残りの2日はミシガン州立大学連合日本センターで日本文化を学んでいるという。彦根でホームステイしていて、ステイ先の若い女性と一緒に来ていた。小声だが的確な日本語だ。
 そうしているうちに開始時間となり、田中貴光さんが紹介された。

硬筆も毛筆も一流
 田中貴光(きこう)さんの貴光は雅号だ。小学校一年から始めて60年弱の書歴があり、多くの展示会に出展、「大書心会」硬筆・毛筆大賞を受賞。硬筆、毛筆ともに文部省認定書写認定1級である。この認定は、客観的な技量判定基準を持つ唯一の公的認定で、1級は指導者としての資格が認められる最高位である。

 田中さんのすごさは、最高位を硬筆でも毛筆でも持っている点にある。漢字も仮名も、大きな字も小さな字も、太い字も細い字もすべてを極めている。当然ながら、彦根を中心に5会場で書道教室を開いている。

 すばらしい実力を持つ田中さんだが、姿からは芸術家らしい華やかさが伝わってこない。小柄な身体に長く黒い上着を着て、黒いスラックス姿という黒づくめの服装で、大きな丸テーブルの隅でうつむき加減に話される。
d0087325_23242630.jpg


平仮名は、美しくなければならない
 田中さんの主張は、わかりにくかったが、あえて一言で言うなら「平仮名は美しくなければならない」ということだ。日本語独特の文字である平仮名、その美しさの追求のために、田中さんは、現在では使われなくなった変体仮名を使って書の作品をつくる。
 「活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」とは、平仮名の美しさをどこまでも追求する田中さんの方法を示していたのだ。

変体仮名とは
d0087325_22285858.jpg 現在、私たちは、「ア」に当たる平仮名に、「あ」(「安」に由来)の字ただ一つだけを用いている。しかし、明治33年以前は、「ア」の平仮名を書くのに、「安」に由来する「あ」と、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字を自由に用いていた。この安・阿・悪を仮名の「字母」というが、平仮名は、字母の音(字音、字訓)だけを使ったもので、意味による使い分けはない。(字体は右の写真を参照されたい。)

 一音に一仮名文字と決められた時、「あ」以外の、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字は異体の字として教えられなくなったが、当時は、まだ使われており「変体仮名」と呼ばれた。つまり、「あ」には2つの変体仮名が、「い」には、「意」、「伊」、「移」を字母とする3つの変体仮名があり、明治以前は、平仮名・変体仮名という区別がなく、平仮名を使うときは、さまざまな字体を自由に使っていたのだ。

 紀貫之の『土佐日記』、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』のような平仮名文学、井原西鶴の「日本永代蔵」(大金持ちになる方法)のような草紙物、また手紙や個人の手記なども変体仮名で書かれている。これが、現在の私たちにとって古い文書が読みにくい原因の一つになっている。

変体仮名で美しく
 当たり前のように思っているが、現在の活字になった平仮名文は、一音一字で書かれている。そこに、変体仮名を使うことによって、平仮名文はどのように美しくなるのだろうか。

 田中さんによれば、
①さまざまな形の文字を混ぜることにより、字面を美しくすることができる。
②同じ文字が文章の中で重ならないようにできる。
③字体により長さや幅が異なるので、一行の長さを調整したり、前の行の文字との間隔を空けてバランスをとる「散らし」ができる。
の3つの要因により、格好よく、変化をつけて流れるように平仮名を構成して書くことができるという。

 そして、どこに、どの変体仮名を使うかは、美に対するセンスの問題であり、字面の美しさ、バランスなどは古典に学んでいるという。
d0087325_23391414.jpg
d0087325_22411749.jpg


平仮名の美を表現する
 田中さんの作品は、いずれも小さくて繊細な平仮名が流れるような書体で書かれている。

 作品1は、百人一首の全句を変体仮名を使うことで扇型に揃えて書くことができた傑作である。
 作品2は、寅年に書かれた作品で、万葉集から虎に関係する歌を集めて、中心に和歌を書くことで真中を散らした作品である。真中に一本の文字の列が上下に貫いているように浮かび上がる。
作品3は、掛け軸に扇型の文のまとまりを流れるように構成したうえで、源氏物語の活字本から変体文字を使って書き起こした作品である。
d0087325_2324091.jpg
d0087325_236227.jpg

d0087325_2372794.jpg 
d0087325_2395944.jpg


 作品を観賞するポイントは、まず、紙に注目する。紙は、和紙の継色紙を使う。赤い料紙の上に別の色の料紙を継いでその上に文字を配置する技法である。

 次に、仮名は、右流れに振る形が美しいので、字体の結びを右流れに振っているかを見る。
 さらに、字の形と余白のバランスが美しいと感じられるかを観賞する。

 田中さんが作品を作るときは、まず、全体の形を構想する。その上で、変体仮名で形に表現し始める。一行目を見ながら二行目を書く。上の文字と次の文字の間の余白、右の行との間の取り方、字の大きさなどを調整する。そして、墨がかすれるまで書く。墨を継いだときの濃淡も一定のリズムを構成するように調整する。

 さらに田中さんならではのこだわりが、本来硬筆ではあらわれない「かすれ」などの毛筆の特長を硬筆で表現するテクニックだ。

平仮名の美意識と「倭漢抄」
 田中さんの話は、わかりにくかった。その原因は、活字文化に慣れた私たちには、毛筆で手書きの時代にあった日本の伝統に根ざした平仮名の美意識が実感できないからだろう。

 平仮名は、日本語独自の文字として、また多くの異体字を持つ文字体系として、平安時代が終わる12世紀にほぼ完成していた。その後は、一貫して平安時代のものが平仮名の手本とされてきた。

d0087325_23163299.jpg 
 その代表が、藤原道長によってつくられたとされる国宝「倭漢抄」である。「倭漢抄」は、5月27日まで京都国立博物館で開かれていた近衛家の名宝展「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」に出展されていた。縹(はなだ)色(薄水色)や橙(だいだい)などの柔らかな色合いの紙に亀甲や唐草、鳳凰などの装飾文様が刷り出された美しい料紙を32枚も継いだ巻紙に、中国の白楽天らの漢詩文と、紀貫之や柿本人麻呂らの和歌がしたためられている。和歌の平仮名は、流れるようになめらかな柔らかな線で毛筆で書かれていて、独特の「雅(みやび)」な美しさを表現している。

 「倭漢抄」は、調度手本とよばれ、最も格の高い贈り物にされた。藤原道長は、書の名手に依頼して調度手本をいくつも作らせ、宮中の要人に贈り、出世競争に勝ち抜く手段にした。
 源氏物語も、道長が紫式部を起用して平仮名の物語を書かせ、完成後は数多くの写本を作らせ、宮中に配布した。そのようにして、道長は平安文学の流行の先頭に立ち、歌合せなどの華やかな文化サロンを演出して、宮廷政治をリードしたと言われる。 当時の貴族は、特に男女の恋愛では面と向かって逢うことが稀だったので、和歌が重要なコミュニケーション手段になった。貴族たちは、歌を贈り、歌を返した。そこでは、和歌の内容と文字や紙の美しさが交際の重要な判断材料となった。多数の調度手本や和歌集を贈った道長は、やがて天皇家との婚姻に成功し、最高の地位につく。
 この時に、日本の平仮名の美が決定づけられたといっても過言ではない。
d0087325_23164022.jpg
d0087325_2317656.jpg


書家のカッコいいアイテム
 田中さんは、毎日10時に部屋に入り、作品づくりに没頭して1時に上がる生活を続けている。
 書家というと、彦根では、「日下部鳴鶴」を連想する。明治三筆の一人で、 近代書道の父と言われた。白いひげを豊かにたくわえた紋付羽織姿の老人の写真が思い浮かぶ。この世界では、田中さんはまだまだ若い方だ。

 ところで、田中さんの胸に、古い和本の表紙を付けた手控え帳のようなものが入っているのに気付いた。これは、なんだろう。ぜひ聞いてみたくなったが、機会を探しているうちに彦根物語が終わってしまった。
 もし、それが手控え帳で、田中さんがさっと取り出して、和歌を毛筆で書きつけているとしたら、それは相当にカッコいい。(By E.H.)


次回のそれぞれの彦根物語93は、

「彦根の『殿様文化』を打破するためには」

山田 貴之さん(滋賀彦根新聞社編集長)

日時 平成24年7月21日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
コーディネーター: 山崎 一眞(彦根景観フォーラム理事長) 

お楽しみに。
[PR]
by hikonekeikan | 2012-07-01 23:30 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.5.19

d0087325_14233532.jpg
d0087325_14235393.jpg
d0087325_14241316.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2012-06-01 14:20 | 談話室「それぞれの彦根物語」

屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91

それぞれの彦根物語91

鍾馗さんにはかなわぬ、波兎

   杉原 正樹 (DADAジャーナル編集人)

2012年5月19日(土)@ひこね街の駅「寺子屋力石」


d0087325_2282790.jpg 奇妙で人の気を引くタイトルだ。おまけにおきて破りの読点が打ってある。おそらく「波兎(なみうさぎ)」という言葉がわかる人はいないとみて、屋根の上にのる鍾馗(しょうき)さんを導入したのだろう。知名度があり人気上昇中の鍾馗さんにはかなわないが、波兎というキュートなうさぎ達が屋根にいるんですよという意味ではないだろうか。
 声に出して読んでみると、「鍾馗さんにはかなわぬ、(一拍)なみ~うさぎ~」と大見栄を切る仕掛けらしい。

 こんな凝ったことをする杉原さんは、DADAジャーナルの編集人。DADAジャーナルは、読売新聞に月2回日曜日に折り込まれる湖北・湖東地域限定のフリーペーパーで、32,000部を発行する。1989年から始まり2012年5月13日で538号となる。発行所は(有)北風寫眞舘(編集・デザイン工房)で、杉原さんが代表だ。ペンネームで記事も書く。言葉へのこだわりも見える。協力は淡海妖怪学波(派ではない)で、これも彼が代表である。

波の上をはねるうさぎ達
 「波兎」とは、波の上をうさぎがとびはねて走っている文様で、神社、寺院、古民家の屋根瓦や欄間などの彫刻、蔵の窓の装飾などに描かれている。別名を「竹生島文様」という。
 杉原さんは、1998年の「まるごと淡海」(サンライズ出版)の出版に参画し、「淡海のデザイン」(p18)で、波兎を近江発祥の独自なデザインではないかとの説を提示した。特に、波の上を走る兎が2匹で対になっている構図と、同じ方向に走る二匹の兎のうち一匹が後ろを振り返り、もう一匹を見る構図が近江独特のものではないかと考えた。
d0087325_22145330.jpg

 仮説検証の方法は、近江の波兎が近江以外の波兎とはデザインが異なることを数で示すことである。もう一つは、年代的に最も古い最初のデザインにたどり着くことだ。杉原さんは波兎を求めて湖北・湖東を歩き、全国各地に足をのばし、写真をとり、コレクションを始めた。その道のりを聞いていると、恋人を捜し求めてさすらう純愛ドラマの主人公のように思えてくる。


キュートなうさぎ達
d0087325_22243042.jpg 具体的に波兎はどこにいるのか。杉原さんは、湖東、湖北の神社や寺院、民家などの名前をあげて紹介した。彦根では、うだつの上がった民家の鬼瓦に「兎」と「龍」の文様があり「うだつ」を表現していたという。この民家は空き家となり鬼瓦は落ちてしまっている。そのほかに、醤油屋の屋根瓦や七曲がりの蔵の窓飾りなどもあった。名古屋にも奈良にも出雲にも鳥取にも波兎文様は見つけられる。杉原さんの仮説は検証がむずかしい。

 次々にうつし出される波兎文様を見ていると、さまざまな形や表情のうさぎがいる。なかでも、杉原さんは、「キュート」に跳んでいる兎が好きなようだ。何度も「キュート」という言葉を使い、両手を上に伸ばして前傾姿勢をとり跳ぶ姿を表現した。また、彦根市松原町の旅館「ふたば荘」のゆかたには、杉原さんの勧めで波兎が描かれているという。どんなキュートなゆかたなのだろう?


波兎と竹生島のふしぎな関係
 ところで、なぜ波兎を竹生島文様というのだろうか。竹生島文様だから、原点になるデザインが竹生島にあるに違いない。杉原さんによれば、1995年、サライという雑誌の取材で竹生島に波兎を探しにきた人は、ついに見つけられなかった。でも、「うさぎ目」の持ち主である杉原さんは、宝厳寺唐門に三匹の兎を見つける。そして対になっているはずだからもう一匹いるでしょうと住職に問うと、一匹は強い風で落ちたので保管していd0087325_22343946.jpgるとの答えが返ってきた。だが、唐門は秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を移築したもので、竹生島発祥とは言えない。(デザインを付け加えた可能性はある)

 通説では、謡曲「竹生島」の一節「(竹生島も見えたりや。)緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり。月海上に浮かんでは、兎も波を奔(かけ)るか。面白の浦の気色や。」から兎が波の上を駆けるデザインがうまれたとされる。これでは、竹生島という地域で生まれたという証拠にはならない。
d0087325_22383751.jpg
 そこで、大国主命が助けた「因幡の白兎」伝説が登場する。イナバの白兎がオキノ島からイナバに渡ろうとして和邇(ワニ)をならべてその背を渡ったが、最後に嘘がばれてワニに毛皮をはぎ取られ、泣いているところをケタの前まできた大国主命に助けられる話だが、びわ湖の周りには、イナバ、ケタ、ワニ、オキノシマの地名があり、近江こそが高天原であったという説がある。だからといって、イナバの白兎がモチーフになって近江で文様が生まれたといえるだろうか? 杉原さんの求めるオリジナル波兎はなかなか捕まえられない。
 もっとも、高校古文の教科書には、竹生島の老僧が湖上を闊歩し、参詣に来た延暦寺の僧を驚嘆させた話が載っている(古今著聞集545話)くらいだから、兎が波間を駆けるくらいは竹生島ではたやすかったのだろう。

まちづくりの種を創造しよう
 杉原さんは、「私の話は実生活にもまちづくりにも役にたたない」という。たしかに身近なことにこだわったマニアックな話だが、これまでにない独自の切り口が新鮮で面白い。役にたつか役にたたないかは、聞き手の問題だ。幸いにも、寺子屋力石に集う多彩な人々は大なり小なりマニアックな人達だ。

 そして、マニアを単なるマニアで終わらせないのが花しょうぶ通り商店街のまちづくり精神であることも十分学んできた。やまもとひまりさんは、「武将・島左近×ねこ=しまさこにゃん」を創造した。ゆるキャラ星には、ねこ族、いぬ族だけでなく、ねずみ族やうさぎ族などがいる。うさぎ族には、ピーターラビット、バックスバニー、不思議の国のアリスのうさぎなどの有名人も多い。「○○×うさぎ=??」という方程式を解いてみてはどうだろうか。波兎に惚れている杉原さんが喜ぶかどうかはわからないけれど・・。(by E.H.)
d0087325_2240339.jpg


次回のそれぞれの彦根物語92は、

「毛筆・硬筆 ・・・活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」

田中貴光さん(書家)

日時 平成24年6月23日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
 
[PR]
by hikonekeikan | 2012-05-24 22:40 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.4.21

f0017409_1725382.jpg
f0017409_173272.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2012-05-10 17:11 | 談話室「それぞれの彦根物語」

それぞれの彦根物語 ゆるキャラは妄想が命

それぞれの彦根物語90

 「笑顔のもと」「元気のタネ」
     ~街の駅での素敵な出会いから~


やまもと ひまり さん (「しまさこにゃん」たちの母、ラジオパーソナリティ)

             2012年4月21日 (土) 10:30~12:00  ひこね街の駅「寺子屋力石」

d0087325_21133750.jpg 彦根は、ゆるキャラ天国、ゆるキャラの聖地だ。「ひこにゃん」は、ゆるキャラ人気No.1といわれ、2008年以降毎年10月には「ゆるキャラまつり」が開催されて、全国から200を超えるキャラ達が参加、多くの人出でにぎわう。
 今回の彦根物語は、「しまさこにゃん」などの彦根独自のゆるキャラを生みだしている やまもと ひまり さんが、ゆるキャラたちの誕生物語を披露した。ゆるキャラにとって大切なのは、生みの親より育ての親、応援する人々の大事に育てるという思いがないと、ゆるキャラは広がらないという独自の見解に、目が開かれる思いがした。


ゆる人間・ひまりさん?
 やまもとひまりさんの肩書は、「しまさこにゃん」の母、ラジオパーソナリティ・びわ湖放送彦根支社勤務だが、本当はもっと幅広い。彦根市内の小学校で、国語の社会人講師として本の朗読をしている。さらに、演劇の俳優、脚本作家でもある。彦根で大活躍しているので市内在住と思われているが、大津市在住だ。楽しい方向にアンテナを向けて、笑顔のもと、元気のタネである「ゆるキャラ」を生みだす。 彼女自身の魅力的な生き方が「ゆるキャラ」に結実している。


しまさこにゃん誕生物語
 ひまりさんが、ゆるキャラの母として新しい人生を踏み出すきっかけになったのが、寺子屋力石と、そこに集う人々との出会いだった。

 国宝彦根城築城400年祭の前年に当たる2006年、エフエム彦根のラジオパーソナリティをしていたひまりさんは、おもしろい人たちが集まる「街の駅・寺子屋力石」を取材した。当時行われていた手作り甲冑教室の取材の後、京都の町屋とは違う江戸っぽい力石の雰囲気が珍しく、二階にあった提灯などをみせてもらった。そして、一階の中央にあった400年祭応援メッセージボードに、「400年祭をド~ンと盛り上げよう!」というメッセージをイラストとともに走り書きした。好きだった司馬遼太郎の小説「関ヶ原」に登場する島左近を猫にした、目つきの鋭い兜をかぶった一匹のしま猫「しましま柄のしまさこにゃん」だ。
d0087325_21231056.jpg
 この小さなイラストに注目した人がいた。当時、「彦根左近の会」を主宰し、甲冑教室で島左近の甲冑をつくっていた熱烈な島左近ファンの小杉さんだ。「左近が好き」つながりで、話が盛り上がり、花しょうぶ通りのお茶の店の店主、通称「お茶の店博士」(御茶ノ水博士のパロディ)が、立体の着ぐるみにしてくれた。

 こうして、さこにゃんが誕生すると、まちおこしを企画していたLLPひこね街の駅のメンバーによって独自のプロフィールが与えられた。さこにゃんは、400年前から城下町の七曲がり仏壇街の古い蔵にひそかに暮らしていた。性格は、粗野で無骨、普段は飄々としているが切れ者であり、心根は優しく、義理と人情に命を懸ける。好物は日本酒。特技は奇襲戦法や待ち伏せ作戦。司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでは密かに泣き、佐和山で再び主君の石田光成と花見酒を酌み交わす夢を見る。

 酒好きということで、最初の商品はワンカップのお酒のラベルになった。そして、400年祭の公式キャラクター「ひこにゃん」の白くて丸くてかわいいイメージに対して、灰色のシマシマ、酒好きで戦いに生きる武将のイメージは、「ひこにゃん」に物足りない歴史ファンや歴女、熱烈な戦国ゲームファンを惹きつけた。

 ひまりさんによると、花しょうぶ商店街は「ゆるゆる」商店街であるが、そこに集まる人たちは「濃~い、濃~い」人たちで、しまさこにゃんは「ど・ストライク」でその人々の心にはまったのだった。LLPひこね街の駅は、このキャラクターを商標登録し、コンテンツ・ビジネスを展開、戦國丸の開店につながっている。


いしだみつにゃんの誕生
 佐和山で主君と再会を果たし、桜を愛でながら酒を酌み交わすことを夢見る猫というストーリーを与えられた「さこにゃん」は、2007年9月の佐和山一夜城プロジェクトで初めて佐和山に登った。そして、佐和山主従の再会の実現のため、石田光成のゆるキャラ「いしだみつにゃん」が誕生した。

d0087325_21364928.jpgd0087325_21374172.jpg 手には扇子を持ち、陣羽織には石田三成の旗印「大一大万大吉」をあしらっている。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」しあわせな世の中をつくるという大義だ。性格は、自意識過剰で普段はツンツンしているが、本当はさびしがりや。好物はお茶(日本一の茶名人)。苦手は柿(丹の毒)。人を差配するのが得意なのに、「義」に生きる不器用な生き方で誤解を招く。筆を持ったら並ぶものなし。神経質で、すぐお腹をこわす。夢は、もう一度佐和山で「島左近」ら家臣と花見茶会(酒ではない)を開くこと。

 2007年11月23日、400年祭の最終イベントでは、さこにゃんが彦根城黒門に、みつにゃんは表門に配置された。そして、2008年4月、ついに桜の佐和山で主従の再会劇が多くの家臣団とともに開催された。さこにゃん、みつにゃん、大谷にゃんぶには、家臣団という熱烈な支援グループができていて、家臣団の中から戦國丸で結婚式をあげたカップルも生まれた。


キャラさん大集合
 ひまりさんの子供達を挙げてみる。
 しまさこにゃん、いしだみつにゃんに続いて、しまにゃんきち(小杉氏の依頼)、やちにゃん(彦根らぼらとりぃ社)、いいにゃん弼(どんつき瓦版、HIKONEキレイキャンペーン隊)、ひごにゃん・さにゃだゆきむら(彦根らぼらとりぃ社)、やかたん(NPO法人小江戸彦根)、ひこっち(エフエムひこねコミュニティ放送)、彦鬼(げんき)くん・美鬼(みき)ちゃん(彦根城オニバスプロジェクト)、けやっきー(積水ハウス「コモンステージ彦根東」)、ひこどん(彦根鉄砲隊)、らんまる君・ぼうまる君・りきまる君(安土町観光協会)、ひらつかためにゃん(大谷吉継家臣平塚為広ファンの依頼)、ハートちゃん(犬上ハートフルセンター)と、次々にゆるキャラが生まれている。そして、そのいずれもが頼んだ人の思いと物語を形にしていることが実感できた。
d0087325_21445476.jpg
          


ゆるキャラは、妄想が命
d0087325_2233112.jpg
 ひまりさんは、ゆるキャライベントの司会も担当する。すると、キャラの性格や好き嫌い、生い立ちなどがたくさん書きこんである紹介文と、ある町の活性化のために誰がいつ製作した何歳の女の子といった表面的なことしか書いていない文がある。 

 ゆるキャラは、着ぐるみになっても喋らない、動くだけのキャラで、平面だと動きもない。アイ・コンタクトだけで相手とコミュニケーションをとるのが宿命だ(大きな目はこのためにある)。しかし、同時に魅力的なプロフィールが与えられていると、好きなものが同じなら共感できるし、嫌いなものはどう克服していくかでストーリーが生まれる。ゆるキャラが愛され共感されるには、妄想が大切なのだ。

 ひまりさんは同じことを演劇で経験している。舞台稽古の最中に、演じている主人公のプロフィールを監督から聞かれる。主人公の経歴、過去の人生経験、家庭や職場の環境、相手との人間関係を突然、聞かれる。そうした人物像が自分の中で明確になっていないといい演技ができないのだ。

 「しまさこにゃん」などの人物キャラは、歴史上の実在の人物がストーリーになる。そのことによって性格や運命が与えられ、人物像に深さがにじみ出てくる。ローカル・キャラは、地域の特徴や地域にかける思いの深さがストーリーとともに説明されて、初めて共感される。
d0087325_224824.jpgd0087325_22105888.jpg
 ゆるキャラにとっては、生みの親より育ての親、使ってくれる里親の方が大切な存在であり、大事に育てていこうという思いがないと共感は広がらない。戦国丸に集う家臣団は、いわば育ての親。キャラは人に見られ、応援されて育つ。
 フォロアーがリーダーを育てるという考えは、花しょうぶ商店街の人たちが常に強調する町づくり、人づくりの基本でもある。


つながる妄想? 
 「キャラは、笑顔のもと、元気のタネ、楽しい方にアンテナを向けて、みんなの笑顔を増やしていきたい。」 そう話す彼女を応援する人は多い。クラウンブレッド平和堂の馬場さんからは、巨大なカステラパンの差し入れがあった。そして、はるばる千葉から(柳生)獣兵衛さんも会いにきた。
 この日は花曇りで、彦根城周辺の桜が満開を過ぎ一斉に散りだした。帰り道の桜吹雪の中で、しまさこにゃんが夢見た佐和山で酌み交わす花見酒とはこんなものだろうかと思い、自分の妄想に思わず笑ってしまった。(By E.H)



次回の「それぞれの彦根物語91」は、
平成24年5月19日(土) 10:30~12:00

「鐘馗(しょうき)さんにはかなわぬ、波兎(なみうさぎ)」
 杉原 正樹 さん(DADAジャーナル編集人)

 民家の屋根に厄払いの願いを込めておかれる鐘馗(しょうき)さん。そのほかに、家屋や蔵、お寺には、波と兎を描いたキュートな文様があり、これは「竹生島文様」とよばれる。彦根に存在する竹生島文様を中心に、湖東湖北の波兎を紹介しながら、近江発祥の妄想を語る。
[PR]
by hikonekeikan | 2012-05-04 22:21 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.2.18

d0087325_10354358.png
d0087325_10355612.png
d0087325_1036888.png

[PR]
by hikonekeikan | 2012-03-02 10:36 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2011.10.15

d0087325_13504419.jpg
d0087325_13505461.jpg
d0087325_135166.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2012-01-31 13:51 | 談話室「それぞれの彦根物語」

昭和30年代の彦根と湖東、そしてハイブリッドな未来へ

それぞれの彦根物語87
  昭和30年代の彦根と湖東
                 野村しづかず さん

d0087325_0294354.jpg  2011年12月17日午前10時。花しょうぶ通りの寺子屋力石の軒の瓦には、前日の雪が解け残って白い帯を作り、そこに時折しぐれ雨が降りかかる寒い朝となった。こんな日は人の集まりも悪いだろうと予想していたが、次々に人が入ってきて、開始時刻には35名近くになり、狭い町屋は一杯になった。その後も人は増え続け、最後には私も含め5~6人が「通りにわ」に立って話を聞く状態になってしまった。
 
 野村しづかずさんは、スーツジャケットにネクタイをきちんとしめ、正座で、入ってくる同級生や元同僚という人達と挨拶をかわされていた。緊張した面持ちと細い縁の眼鏡ごしにのぞく神経質そうな目が印象的だった。

「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」
 野村さんは、昭和30年に彦根東高校を卒業し関西電力に就職、彦根営業所に6年間勤務した。昭和31年夏、20歳の野村さんは念願のカメラを買って変化する30年代の滋賀を精力的に撮影し始める。そして、平成8年の定年退職後、撮りためた3000枚の中から昭和30年代の50カットを選び写真展を開催していたところ、嘉田由紀子さん(現滋賀県知事)から、撮影した場所の現在の様子を取材し、比較して出版することを勧められる。そして、平成19年11月、「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」を自費出版された。これが日本自費出版文化賞を受賞。本は完売し現在は図書館でしか見られないという。

 嘉田さんは、序文で「『自分今昔』ともいえる写真でつづる自分史を提案させていただいた。写真の「自分化」と「立体化」が埋め込まれている。自己表現であり時代伝達であることに成功している」とその成果を讃えている。

彦根・湖東の昭和30年代
 「明治維新や第二次世界大戦の敗戦の時、政治や社会の体制は変わったが、人々の暮らしや生業、地域の環境や風土までは変わらなかった。ところが、昭和30年代はくらし、生業、地域の景観や環境までが大きな変化を遂げた。それまで連綿と続いてきた自然と人の暮らしのつながりが切れ始めた。」と野村さんはいう。

 彦根物語で紹介された彦根・湖東の30年代は、昭和31年11月19日の東海道本線全線電化の写真で始まった。試験電車が彦根駅のホームに到着し、引率された小学生達が日の丸の小旗を振って出迎えた姿を捉えている。対照的に最後のSL「雲仙」が彦根の踏み切りを通過する姿も映し出された。また、昭和31年12月の写真では、街頭テレビが塀の高さに設置され、防寒着を着た沢山の人達が見つめていた。

 次に農業の変化が紹介された。牛と人の力による水田の田起こし、田植え、草取り、稲刈り、はさがけの光景や、湖辺の水郷地帯で田舟を運搬手段として利用する姿が、耕運機の登場で牛がいなくなり、干拓・圃場整備で水路も田舟も姿を消した。
 漁業では、彦根で行われていた地引き網漁の姿が映し出された。担い手は沖之島の漁師達で、信長以来の朱印状で漁業権が認められていたという。しかし、40年代から共同作業ができなくなってしまう。淡水真珠の養殖も全盛期で、彦根の曽根沼での母貝への核入れ作業が写された。
 この時代は、琵琶湖の水が飲めた時代であった。簡易水道が整備される前の昭和34年に沖之島で撮られた写真には、少女が琵琶湖の水を家に運ぶ姿が写っている。

 際だつのは、大規模開発だ。昭和39年4月に名神高速道路栗東-関ヶ原間が開業したが、昭和37年4月に撮られた写真は、愛荘町松尾寺の山をブルドーザーが削り崩す現場を背景に、工事をみる菅笠を被った旅の僧の後ろ姿と、その脇に座って横を向いてキセルをすう手ぬぐいで頭を覆ったお爺さんが写っており、二人の人物と工事現場のコントラストは、まるで黙示録のようだ。東海道新幹線の突貫工事も行われていた。さらに、大きく地形と自然と景観を変えたのが内湖の干拓だ。干拓前の津田内湖の全景を八幡山から撮影した昭和32年11月の写真は、素晴らしい景観と自然が失われたことを痛感させる。

 町の姿も大きく変わった。彦根市の佐和山では、野田セメントが工場を拡大し、松原では湖上観光船が出入りする度に人力で橋を回転させた。両岸には自転車とバイクが船の通過を待っていた。町で買い物をする女性は、背中にも両手にも荷物を一杯もって歩いていた。子供たちは、群れをつくり、川や野原で遊んでいた。
 乗り物はバスが全盛で、近江八幡市小舟木の朝鮮人街道の松並木をボンネットバスが道幅いっぱいに土煙をあげて走る姿があった。昭和34年8月には彦根で初めての自家用車モーターショウが写されている。
 30年代のフィナーレは昭和39年10月1日の東海道新幹線開業と10月10日の東京オリンピック開催である。野村さんは米原駅から初めて新幹線にのり、カメラを持って東京オリンピックを見に行った。

 どの写真も、古いものと新しいものとのコントラストが際だっている。当時流行した映画「ローマの休日」に影響されてスクーターに乗りデートする若い男女と、手押し車に麦の束を満載して運ぶおばあさんが田舎道ですれ違う瞬間をとらえた写真はその典型だ。3分割法の手本のような構図と奥行きを感じさせる近景・中景・遠景の構成が強く意識されている。
d0087325_0472860.jpg



振りかえる30年代
 30年代は現象的には、電車、テレビ、家電製品とバス、スクーター、耕運機が登場し、高速道路、新幹線、大規模干拓、琵琶湖大橋などが出現するが、背後には石油エネルギー革命があった。このエネルギーの利用により、人々は、便利・速い・強い・大きいを実感できた。そして、自然からの自由、過去からの自由を理念に大量消費時代の坂道を登り始める。その先には、公害、日本列島改造、バブルがあった。そして、人と人との扶助の関係(自由な個人主義の台頭)、自然に従う生き方、子供の生きる力、地域のコミュニティ力が衰退していった。

 嘉田さんは、序文で「人が自分の身体で生きていた実感を良くも悪しくも強く感じていた最後の時代」という。そして「30年代に思いを至らすことは、単に懐古趣味としてのノスタルジーではなく、滋賀の、そして日本の未来を照らす大きなヒントにもつながるのです」と書いている。同じ言葉を野村さんも強調した。
 では、30年代を見つめる意味は何か、未来への大きなヒントとは何だろうか?


ハイブリッドな未来
 野村さんは、「写真を撮った当時は牛や地引網がなくなるとは思っていなかった」と言った。今だからわかる。50年たって歴史的に俯瞰できる現在になって初めてわかることがある。この「歴史的俯瞰」の上に、現在を仮に坂の上の社会とすれば、昭和30年代は、坂の上をめざして脇目もふらずに登っていた上り坂の社会だった。そこを賞賛するつもりも批判するつもりもない。歴史的俯瞰の上に立って、現在から未来に必要なのは、右か左かではなく、右と左を統合したハイブリッドな未来像だ。


津田内湖の写真
 談話の中で大きな話題になったのが、津田内湖の全体を八幡山山頂から撮った写真だ。
聴衆の一人だった滋賀県立大学の柴田いづみ教授は、こういう写真を探していたという。教授は、近江八幡市を中心に湿地保全のフィールドワークを学生達と住民とで毎年実施している。次回にはぜひ使いたいとおっしゃった。

 この話を聞いていて、「魚と恋に落ちた僕」(ダン・バーバー)という話を思い出した。
 ダンはシェフで、ある時とてもおいしい魚に出会う。その魚は、南スペインのセヴィーリアにあるヴェラタ・ラ・パルマ養殖場でとれたものだ。(滋賀県立大学はセヴィーリア大学との交流協定を2011年に締結している)
 この養殖場は、グアダラキビール川の河口にあって、1980年までアルゼンチンの業者が湿地を干拓にして肉牛の放牧をしていた。この会社は倒産し、1982年スペインの会社が土地を買い取り、運河の水を逆流させて内湖に戻し、109km2の養魚場を作った。(びわ湖の南湖を二つ合わせた広さ) 
 この養殖場の特徴は、魚に餌をやらないことだ。さらにフラミンゴなどの鳥が60万羽もいて、魚と卵の20%は食べられてしまうのに放置している。効率は悪い。生物間の食物連鎖を管理し、自然の生態系の恵みを受け取るだけ。
 しかし、健康で、なにより魚がおいしい。普通の魚は皮に苦みや臭いがあるので取り除くが、ここの魚は皮がおいしい。水が健全だから皮で汚濁物質や化学物質を防ぐ必要がない。これこそシェフが待ち望んでいたおいしい魚と未来の養殖、そして本来の漁業だ。
 「相手を知れば知るほど好きになるのが本物の恋だ。僕はここの魚と恋に落ちた」、という話だった。


クリエイティブ経済にいる我々
 この養殖場は、これまでの発想とは真逆だ。こういう形に農業や漁業が変化するのが理想だ。ともかく、おいしい、安全、環境によい、健康だ、昭和30年代の魚のように。それがブランド価値を持つ。クリエイティブ価値といってよい。
 人工飼料と化学物質を投与され過密に育てられた養殖魚をシェフは使わない。少々高くてもおいしい天然魚、それも地元で取れた魚を、鮮度と素材を生かす腕のいいシェフが料理する。それに喜んでお金を払うのがクリエィティブ経済だ。それが現在の先進国の経済だ。

 「それで世界の食糧不足が賄えるか」という主張にはウソがある。まず、この国は大量に食料を輸入し大量に廃棄している。そして世界には10億人の飢えた人々がいる。食糧不足の真の原因は、狭い農地と機械化の低さによる「低い」農業生産性にあるのではない。

 さらに、この先に見込まれる食糧不足はいわゆる「農業技術の革新」では解決しないだろう。なぜなら、真の原因は、技術の未熟ではなく資源の枯渇にあるからだ。土壌の喪失、森の喪失、水源の枯渇、砂漠化、魚の激減、多様性の喪失など、いずれも資源の枯渇を意味する。

 今、30年代を見つめる意味がそこにある。坂の登り口である30年代と坂の上の現在を俯瞰すれば、未来へのヒントは自然の資源・エネルギーの回復・再生と持続可能な利用への転換にあることがわかる。そのための工夫の余地は極めて大きい。クリエイティブ経済は、その工夫を創造的と評価する。必要なのは、これまで捉われてきた発想の転換だ。


城下町の写真
 私には、もうひとつの期待があった。
 30年代の彦根市芹橋の足軽屋敷地を写した写真だ。とくに路地の塀はどうなっていたのだろうか。野村さんなら必ず撮っているはずだと期待して、数日後、図書館で調べてみた。

 すると、武家屋敷の低い土塀が並ぶ狭い路地と、その手前でエプロンを来たお婆さんが手押し車を押している姿が目に飛び込んできた。土塀は漆喰が落ちて土壁がむき出しだが、塀の向こうに見える緑の木々とともに美しい町並みが続いていた。白黒の写真だったが、美しい。色が見えるようだ。
 ところが、それは昭和37年5月に大津市膳所1丁目旧小姓町、御徒町あたり撮影された写真だった。野村さんは、当時職場の先輩に誘われ、この町へ俳句の吟行に来たことがあると書いている。期待ははずれたが、とにかくその場所に行ってみた。多くの場合、こういう旅は失望に終わることを知りながら、行ってみないではいられなかった。

 12月26日、雪が断続的に激しく降る日だった。その場所はコンクリートの吹き付け壁またはブロック壁に変わっていた。沢山の電信柱が立って、遠くに大津プリンスホテルが雪に霞んで見えた。しかし、激しくなってきた雪の中をさらに歩いてみると、門も建物も古い形式をとどめたままの一角に突き当たった。今でも十分に美しかった。もし、この通りが保存・修景されれば、沢山の散策する人々でにぎわうだろう。歴史の恩恵を最大限に受け取るべきだ。歴史を否定するのではなく、歴史を活かして持続可能な活用をする。大津・膳所の旧東海道沿いの悲惨な変わりようを見ているだけに救われる思いがした。歴史資源を枯渇させるのは、未来への贈り物を枯渇させるのと同じだ。
 雪の中で、私は急に元気になった。ひょっとして恋に落ちたのかも? (By E.H)
d0087325_0532641.jpg

d0087325_0534644.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2012-01-27 07:00 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2011.12.17

d0087325_10241374.jpg
d0087325_10242538.jpg

[PR]
by hikonekeikan | 2011-12-28 10:27 | 談話室「それぞれの彦根物語」