NPO法人 彦根景観フォーラム

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辻番所・足軽屋敷の利用を考える(1)

 
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 去る8月2日(土)辻番所・足軽屋敷の活用を考える第2回ワークショップが、彦根市芹橋二丁目に残る辻番所をもつ足軽屋敷で、彦根古民家再生トラスト、善利組足軽倶楽部、彦根景観フォーラムの共催により開催されました。ワークショップでは、トラストの寄付金を彦根市に寄付し、市が文化財保護基金を活用して8月中に買い取ること、維持運営は市民が行うという状況になっていることが報告されました。
 今回は、これに先立ち6月1日に開催された第2回芹橋・辻番所シンポジウムの内容から第2回のワークショップの内容まで連続してお知らせします。


第2回芹橋・辻番所シンポジウム (平成20年6月1日) 

 第1回芹橋・辻番所シンポジウムは3月15日(土)、芹橋二丁目の辻番所をもつ足軽屋敷および四番町ダイニングで開催され、約80人の市民らが参加され、売却される辻番所・足軽屋敷の保全と活用の必要性、芹橋地区のまちづくりについて考えました。
 第2回シンポジウムは、彦根古民家再生トラスト、善利組足軽倶楽部、彦根景観フォーラムの共催で、芹橋地区の歴史とそれを未来にどう生かすかをテーマに、辻番所・足軽屋敷および四番町ダイニングで開催しました。

第一部 見学と探訪「足軽辻番所と芹橋地区」 解説 谷口 徹 氏 彦根市教育委員会

d0087325_11105171.jpg 辻番所をめぐる謎 
 谷口氏からは、善利組足軽屋敷の城下町での配置と意味、武家屋敷としての特徴などの解説の後、辻番所が彦根城下に36箇所あり、うち20箇所が芹橋にあったという事実が初めて発表されました。
 下図の小さな○がかつて辻番所があった位置です。(●が、現存する最後の辻番所の位置です。) 芹橋は旧町名では15丁目まであり、20もの辻番所がほぼ通りごとに設けられ、多くが組の南側の横断路との辻に集中しています。
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 江戸日本橋付近を描いた絵図では、大通りと交差する路地の入口に木戸を設け、木戸番が自身番という小屋に詰めて夜間は木戸を閉めたとされます。彦根でも、ここに木戸があって夜間は閉めていたかもしれません。
 谷口さんによると、江戸時代の組は通り(筋)を挟んで向かい合った屋敷群が一組として配置されており、組単位で辻番所が運営されていたことを想定させる配置です。しかし、出入りを監視するのであれば、この位置に辻番所があるのは合理的ではありません。この位置に辻番所が設けられた理由や木戸の存在の有無など、未解明の謎が多いことが実感されました。

 その後、善利組足軽倶楽部の努力で特別公開された足軽屋敷の中居家、林家、太田家を、ボランティアガイドの案内で巡りました。中居家、太田家は市指定文化財ですが、林家は初めての公開でした。3つの家は武家という共通要素を持ちながらも構成が異なっており、さらなる調査と研究が待たれます。
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第二部 講演「彦根藩足軽と善利組屋敷」 講師 母利美和 氏 京都女子大学教授 於:四番町ダイニング 

d0087325_11141062.jpg彦根藩の武家社会と足軽の編成 
 彦根藩の武家社会は、1万石から35万石までの給人480家、40俵3人扶持から24俵3人扶持までの歩行(かち)217家、20俵2人扶持の足軽1,120家、14俵1人扶持~5俵1人扶持の武家奉公人、陪臣(苗字あり)1,331人、陪臣(苗字なし)4,110人で構成されていました。
 彦根藩の足軽の編成は、弓組が6組で1組は20人、鉄砲組は1組あたり30人の組が25組、40人の組が5組、50人の組が1組で、合計1,120人でした。各組は武役席の物頭(ものがしら)が支配しましたが、それも数年から十数年で支配替えとなっており、組支配は固定していません。各組には弓・鉄砲の流儀があり、その流儀は物頭が交代しても代々受け継がれました。

足軽組の変遷 
 井伊家の足軽は、関東入封以前に13組(鉄砲149人、弓50人)がいたことが井伊家文書から判明していますが、井伊家の領知は、元和元年(1615)、元和3年(1618)、寛永10年(1633)に、それぞれ5万石づつ加増、30万石となりました。これに対応して足軽の増強が計られたと推測されますが、実際は元和3年までには23組715人となり、寛永5年までには36組1100人に達し、寛永10年の5万石加増後は1組20人しか増えていません。特に増加の目立った年は、元和元年・2年の260人と寛永4・5年の270人で、前者の増強は加増に対応したと考えられますが、後者の増強の理由は不明です。善利組は、慶長期から寛永5年にかけて形成されました。

足軽の身分と社会
 近世の足軽は、鉄砲・弓組などの編成による戦闘集団で、騎馬武者による個人戦に替わる戦闘の主力でした。彦根藩では苗字帯刀を許され(藩により処遇は異なる)、城下の「外ケ輪」(外堀より外の第四郭)の足軽居住区に、50坪程度の敷地を与えられ、門構えのある屋敷を構え、組ごとに組屋敷を形成しました。苗字を持たない中間・小者とは一線を画する身分であり、扶持高は慶長7年(1602)では「壱人ニ付拾七石通」とされ、幕末期では20俵2人扶持を支給されました。
 元和6年(1621年)以降、足軽組には各組2人づつ手代が任じられ、各組4~5人に1人づつ小屋頭(小頭)がいました。手代は、足軽組中の統率をはかり、個々の足軽の諸手続、欠員足軽の組入りなどを行う重要な任務を負っており、扶持高も幕末期では40俵3人扶持と伊賀歩行なみでした。寛永期には手代の世襲が認められていました。一般の足軽が病気や老年になれば、大坂の陣以後に抱えた者は扶持を取り上げ、それ以前の者は「番上がり」になったのに対し、手代は老年であることは問題ではなかったため、寛永21年(1644)には「古き手代」が29人もおり、老年におよび非常時には他国駆けもできない状況になってしまいます。
 このため藩主直興は、藩政改革として、年頃の子供のいる場合は役儀を譲り親は隠居させ、適格な子供のいない場合は隠居役として「城中之番」を申しつけています。「番上がり」の場合、幕末期には12俵2人扶持が支給されました。
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足軽の役割
 弓・鉄砲による足軽隊は、物頭の指揮のもと各騎馬組に従軍しました。このため、日常の武芸稽古が求められ、稽古銀が支給されました。寛政12年(11635)の善理橋(せりばし)十二丁目(鉄砲40人組)の場合、鉄砲矢場での作法、日常的な稽古の規則、矢場管理などが記された記録があり、鉄砲の流儀は「田布施流」で「往古より御組伝来なり」としています。
 直孝の時代には、武役の他に城中番を「役儀」として勤めるようになり、元禄8年(1695)には足軽組の一部が「御城内番」や城下11口に設けられた「御門番」を勤めています。
 その他に役儀として、江戸詰、普請方への「出人」(出向)、御触使(おふれつかい)御用、自身番・夜廻り、火消当番、注進番・辻番、御屋敷見舞(みまわり)番、朝鮮人来聘遠近(おちこち)宰領、日光御社参之供、大津廻米舟への「上乗(うわのり)御用」、領内の「米見」、「御武器櫓」の虫干しや諸道具の手入れ、大風雨之節の見回り、「遠近宰領」(近国・遠国への使者派遣)があり、順番割り当て制でした。
 このうち普請方への出人は、足軽の日常鍛錬の一環として重視されていました。文化年間(1804~1818)の事例では、御庭、御山の手入れ、城廻りの草刈り、河川堤防の修理、荒神山(彦根市石寺町)での石の切り出しなど、普請方の用務に応じて足軽が動員されました。その他に、作事方の元締役・御材木奉行・御瓦役小頭、御鉄砲打・御鉄砲細工人、町奉行配下の御町同心(町廻り衆)、筋奉行配下の元締などの役儀を務める者もあり「引け人」と呼ばれました。

足軽の相続
 一般的に大名家における足軽は、武役を果たすため一代限であり、形式的には世襲相続は認められていないとされます。彦根藩の場合は、彦根市史では「足軽は通常世襲制をとっていた」とされており、確かに近世後期には世襲が認められていたことが確認できます。ただし、足軽のすべてが当初から世襲を認められていたわけではなく、寛永期では、大坂の陣での功績やそれ以前の由緒が世襲相続の条件になっています。
 江戸中期の事例では、代々奉公を勤めてきても適格な実子がいない場合は、養子相続が認められました。町人からの養子は制限され、また相続に当たっては、器量・骨柄(能力・体力)が大事であり、実子相続の場合は加減を加えてもよいが、養子相続の場合は「器量」を十分吟味するよう組頭に求めています。
 延享2年(1745)の御組中由緒書留」で、大坂の陣以後に編成された善利橋十二丁目の鉄砲40人組の相続の実態をみると、養子相続の事例は、組内外の足軽の子・家中の陪臣などがあり、村方からの養子も多くみられます。また、足軽の婚姻関係をみても村方との広い関係が読みとれます。町方からの養子相続も散見されます。江戸前期には、他国・美濃者の養子もみられますが、江戸後期には美濃者の養子相続は制限されました。全体的に、一代あたりの勤続年数が長く、「追放」「欠落」以外には、実子の場合は跡目相続が許されています。「追放」「欠落」の場合は、新たに抱えた者を「組入」しています。
 明治4年(1871)の藩士戸籍簿の居住地と比較すると、幕末まで居住地の変動のない家が六割を占めており、比較的安定した相続がされており、村方による短期的な「足軽株」の売買の様子も確認できていません。

一般的な足軽のイメージと彦根藩の足軽の特徴
 大名家における足軽の存在形態をみると、城下の近村が足軽の供給源となり、普段は多くが村に住んでいること、足軽株の売買などにより出入りが多く、一人あたりの勤続年数も少ないなどの例から、近年の研究では足軽以下を農民の武家奉公と捉え、武士と農民の中間的身分として考えられています。
 しかし、彦根藩の場合は、病死や不明の場合を除くと勤続年数がほとんど20年以上であること、足軽の武役稽古への専念と日常的な諸々の役儀への従事など、家中における足軽の位置づけが他藩の事例と異なっています。
 彦根藩では、延享2年(1745)に足軽組単位で「御組中由緒書留」が編纂されており、足軽は単なる普請労働に従事する奉公人ではなく、武役や家中役儀の体系に位置づけて見附役職が日常的に人事評価する対象とし、身分保障をして世襲化を計っていた点に大きな特徴があります。

 こうしたなかで、足軽から実務に有能な人物が出て、幕末には藩政を動かす力をもち、明治維新や戊辰戦争への参加につながります。「辻番所は、こうした彦根藩全体の中で足軽の果たした役割を実感できる場所として、社会的に活用してほしい」と、母利先生は締めくくられました。
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第三部 話し合い「足軽・辻番所の活用」 於:辻番所・足軽屋敷

  3班(各10名程度)に分かれ、簡単な自己紹介から始め、辻番所と芹橋地区の良い点・悪い点について感想を出し合いました。
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 辻番所の良い点では、歴史の奥深さを感じる、懐かしさや落ち着きを感じるという意見が多く、悪い点は、老朽化があげられました。
 芹橋地区の良い点は、彦根城をどこからでも見られること、路地や見越しの松などの美しい原風景が日常の中で残っていること、静かで安全なこととされ、悪い点は、自動車が入りにくく不便、地震や火災時に救急車や消防車が入らない、貸家・空家が多く住民の一体感が低い点などがあげられました。
 特に、地元では「狭く不便」とされた路地が、外来者からは、「美しい原風景」と高く評価された点は、印象的でした。
 
 その後、活用案を話しあい、班ごとに発表しました。主な案は次のとおりです。
① 建物を文化財に指定し、歴史遺産として復元する。
② 足軽屋敷資料館として、歴史や生活を紹介、小中学生が地元の歴史を勉強する場にする。
③ 静かな住宅地で、大勢の観光客には抵抗がある。
④ 地域の集会場、地域の人と学生や地域の文化に触れたい人が交流するコミュニティハウス、子供と高齢者が交流する場などとして活用する。
⑤ 大学生の下宿としての活用、あるいは歴史に関心を持つ人たちが泊まれる民宿にする。
⑥ 地域の人が本を持ち寄るミニ図書館とする。
⑦ 常時公開にはボランティアや地域の協力が不可欠。
 
 このあと、懇談会を持ちました。活用案の実現にむけて、和やかで楽しい時間でした。
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by hikonekeikan | 2008-08-17 11:22

大地震にも耐える伝統民家の改修 ひこね街の駅「寺子屋力石」の耐震改修レポート 3

耐震改修の実際
 それでは、改修方針に基づき行われた具体的な施工事例を見ていきましょう。改修は、西澤工務店のご協力を得て、できるだけ市民や学生が参加し、実例で学びながら行うワークショップ形式をとりました。
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1,柱の根継ぎと新しい柱の追加
 建物を支える柱の根元が腐っています。
 これは、壁土が経年変化により落ちて柱の周りに堆積し、土壌から水分を吸って柱を腐らせたものです。柱が床下であること、真壁の壁面をパネルで覆っていたため土壁の崩れが発見されず放置されたことに主な原因があります。伝統構法は合理的にメンテナンスができる仕組みになっていたのですが、それが継承されなくなっています。
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 柱の下部全体が腐った柱は、建物を支える力がないため、腐った部分を取り除き、健全な部分にまで新しい土台をつくり、乗せます。石と異なり土台のコンクリートは水を吸収して木を腐らせることがあるため、コンクリートと柱の間に銅板を挟んでいます。銅がさびて発生するイオンが腐食を防いでくれます。
 一方、断面積の半分ほどが腐ってしまった柱は、腐った部分を切りとり、固い「かし」の木で補強しました。
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 さらに、力石は建具店が営まれていた時期があり、建築当初にはあった柱が切除されている箇所がありました。このため、構造的な歪み、変形が大きく、耐震性にも問題があるため、本来の場所に柱を追加しました。
   
2,足固め
 力石には重要な柱と柱を床下で結び、揺れに対して柱がばらばらに動かないようにする「つなぎ材」が不足していました。このため、太い横材をいれて柱をつなぎ足元を固めました。
 柱と横材をつなぐのには「ヨコセン」、「ハナセン」を使い、柔軟性を確保しながらはずれないようしっかりと固める伝統的な技法を用いました。
 さらに金具とボルトで連結し、2重の安全対策を講じました。この様子を現在も見られるよう、床にアクリル板がはめ込まれています。
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3、部屋の四隅を固める
 通りニワと部屋の一部に重要な柱に対してL字型に壁を配置すると耐震性は向上しますが、圧迫感がうまれます。
 この部分は、小さな壁と障子を用いてデザイン的に圧迫感がなく採光、通風が可能な工夫をしました。全面を壁にすることと比べると劣りますが、それでも大幅な耐震性の向上が図れます。
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4,荒壁パネルと木格子
 重要な柱の横に壁を入れるのですが、伝統的な土壁は多くの手間と時間がかかります。そこで、土壁とほぼ同じ機能をもつ荒壁パネルを木枠にビス止めしました。
 土壁は、地震の揺れに対して当初は抵抗しますが、ゆれが大きくなると自ら壊れてエネルギーを吸収し、軸組みに伝わるゆれを軽減する優れた機能を持っています。
 荒壁パネルは、格子に組んだ杉材に壁をぬってパネル化しており、ゆれに対しては、まずビスが抜ける、パネルが少しづつ壊れることでエネルギーを吸収し、柱や梁などの軸組みへの負担をへらすことができます。
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 簡単に取り付けられ交換も容易な荒壁パネルですが、土壁と同じく光や風をさえぎってしまうので、暗くなったり風通しが悪くなります。
 そこで、比較的太い木で格子を組んだものを壁のかわりに重要な柱の横に設置します。
 木の格子は、当初はゆれに抵抗しますが、揺れが大きくなると組まれた木材がひずんでめり込み壊れ始めます。これにより土壁と同じく、ゆれのエネルギーを吸収します。

 外観もおしゃれです。 現在、寺子屋力石では、南国カフェ「ルアム」が営業しています。木の格子が実に美しくインテリアとして取り入れられていますので、ぜひ、訪れてみてください。
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5,リフォームと耐震改修を重ねる
 こうして10月31日に、力石の耐震工事は完成しました。

 この耐震改修はデザイン的にも配慮されており、大変美しい空間ができあがりました。
 いつくるかわからない地震に対する耐震補強は容易に進みませんが、明日からの暮らしを利便にし、美しい空間をつくるリフォームと耐震改修が重なっていれば、誰もが大きなメリットを感じます。
 今回の改修は、こうした点を配慮して取り組みやすい改修の実例を提供することができました。(おわり)
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                完成式のようすとテープカット
    
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by hikonekeikan | 2008-08-17 00:13

大地震にも耐える伝統民家の改修 ひこね街の駅「寺子屋力石」の耐震改修レポート 2

木造伝統構法 耐震改修のポイント
 寺子屋「力石」の耐震改修を実施した木造伝統構法彦根研究会(座長 鈴木 有 名誉教授)は、地震に粘り強く耐える伝統民家の特徴を最大限に引き出す耐震改修の方法を、次の3つの基本方針と5つの指針にまとめました。

○3つの基本方針
1 、安全・安心に、そして日々の暮らしが豊かになるように改修する
2 、伝統の意匠を受け継ぎ、歴史ある町並みと調和するように改修する
3 、木造伝統構法が持つ、しなやかな粘り強さを活かして改修する

○5つの具体的な改修指針
1 、年月が経ち劣化した構造を元に戻すために、柱や梁が沈んだり傾いたりしているところを直し、腐った箇所を補修する。

2 、構造全体で地震へ有効に対処できるように、必要なところに、柱や梁などを加えて補整する。

3 、激しい揺れをやり過ごせるように、柱や土台は基礎に固定せず、礎石の上に載せるだけにして、大事な柱の足元を互いに横材(足固め)でつなぐ。

4 、揺れを抑えて耐力を高めるために、四隅に、そして重要な柱のそばに有効な壁などを設ける。

5 、ひずみを受け入れ壊れながら、地震のエネルギーを吸収できるように土壁・荒壁パネル・面格子などを選び、斜め材(筋交い)は使わない。


寺子屋「力石」の耐震性の診断
 寺子屋「力石」は、築250年以上と推定される古民家で、いわゆる「町家」形式です。町家は、農家や武家屋敷とは異なる特徴があり、通りに面した「間口」が狭く奥に細長い家屋で、「通りニワ」とよばれる通路が間口から奧まで通り、それに面して各部屋が1列に並んで配置されているなどの特徴があります。
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 9月29日(土)、実際に床板を取り除き、耐震性の診断、確認を行ったところ、次のような課題が明確になりました。

1、 町家特有の細長い家の形状から、両隣との間には壁があるが、間口方向には壁が少なく柱だけが立っている。壁はゆれに抵抗する要素として大変重要であるが、それが間口方向に少ないため、耐震性が低くなっている。

2 、床下で柱と柱をつなぐ「つなぎ材」が少なく、ゆれに対して柱の足元がばらばらになりやすい。

3 、伝統構法でも一般の民家の場合は、柱と柱の間に太い梁をまわし、梁と天井との間に小さな土壁を入れてゆれに抵抗しているが、力石は天井が低く、小さな土壁を入れていない。

4 、木造の建物は定期的に点検し手入れをすることにより長寿命を発揮するが、手入れがされていないことにより、柱の下部が地盤からの水分を吸って腐り、建物を支える能力を失っている。

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○力石の改修方針
以上の問題点に対して、つぎのような改修方針を立てました。
1、柱の下部の腐りを取り除き、新しい材などで補強する。
2、床下で柱と柱の間に太い横材を入れてつなぎ、柱の足元を固める。
3、可能な場所を選んで、新しく壁を入れる。入れるポイントは、
  ①建物を支える重要な柱の横に壁を入れる。
  ②壁の配置は、建物や部屋の四隅におき、L字型に固める。
  ③壁でふさぐと支障のでる場所は、木の格子などを使う。

 こうして、伝統構法が本来持っている揺れに対する粘りと柔軟に受け流す能力を向上させます。  
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耐震改修前の内部                  耐震改修後の内部
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by hikonekeikan | 2008-08-16 23:22

辻番所・足軽屋敷の棕櫚の木に関するお詫びとお願い


 このたび、芹橋の辻番所・足軽屋敷の裏庭の棕櫚の木が切られたことについて、芹橋の住民の皆さんから、驚きと厳しいお叱りの言葉を七月二十七日にいただきました。これについては、私たちのミスが原因であり、今となってはお詫びするしかありません。誠に申し訳ありませんでした。

 経過を申し上げますと、辻番所・足軽屋敷は彦根市が買い取ることとなり、その前に、足軽屋敷の柱や梁を補強し崩壊を防ぐ工事を行うこととし、あわせて前庭の赤松を中心とした庭木の手入れを行うこととしました。
 この庭木の剪定のついでに裏庭の整理と手入れを理事長が造園業者に依頼しました。理事長は棕櫚は当然残ると思っていたのですが、それを明確に伝えていなかったため職人が切ってしまいました。奥のもう一本も切ろうとしたのですが、非常に高くて傾いており、倒れた場合に危険と判断され、残りました。

 この棕櫚の木は芹橋の景観を特徴づける重要なランドマークであり、私たちも大きな衝撃を受けています。また、市民の方のご指摘にあるように、芹橋には棕櫚が屋敷の裏庭に昔から植えられており、重要な文化的意味を持っていたと思われますが、その意味を私たちは知りません。棕櫚の文化的意味を住民の皆さんと確認したうえで、再度、植えることも検討したいと思います。

 今回のことは、故意ではないものの、過失は私たちにあります。そのことをお詫び申し上げるとともに、今後ともきちんと情報を公開し、合理的で民主的な話し合いを通じて市民によるまちづくりを実践し、十年先、二十年先の彦根を世界に誇れる城下町へと創造する使命を、市民の皆さんと一緒に、工夫しながら、楽しみながら果たしていきたいと考えています。
 どうぞ、ご理解いただきますようお願いします。 

  平成二十年八月一日
                       NPO法人 彦根景観フォーラム 理事長 山崎 一眞


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by hikonekeikan | 2008-08-02 14:00