NPO法人 彦根景観フォーラム

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第10回 足軽辻番所サロン 芹橋生活 平成22年2月21日(日)

中川 禄郎 直弼の開国論を支えた藩校教授
                       角 省三
 

d0087325_20331691.jpg 紙の顕彰碑
今回の足軽辻番所サロンは、「中川禄郎-直弼の開国論を支えた藩校教授」(「滋賀作家」第九十三号・平成十六年六月一日発行)を著者の角省三さん自身が解説された。
 角さんは、忙しいサラリーマン生活を終え定年退職した後、平成14年からほぼ毎年1人づつのペースでこれまで8名の人物の本格的な人物伝を発表している。まさに継続は力なりだ。
 それにしても、なぜ中川禄郎に注目するのだろうか。角さんは言う。「優れた業績を残しながらも歴史に埋もれた人にスポットライトを当てたい。顕彰の石碑の替わりに文章で紙の碑を建てるのだ」と。

開国論の中心人物・中川禄郎
 中川禄郎は、1796年彦根生まれた。京都で頼山陽らに漢学を学んだ後、諸国を遊学、長崎で蘭学者と交わり世界情勢を知る。帰国後私塾を営んだが、天保13年(1842年)藩校弘道舘の教授となり儒学を講義した。著書「西洋一覧」は、キリスト教伝来の経過からはじめ4大州の国々の国名、歴史、現状を述べたもので、彦根では最も西洋事情に通じていた。
 嘉永三年(1850年)井伊直弼が藩主になると藩主に学問を授ける侍講(じこう)として召しかかえられ、アヘン戦争による清の敗退後の西洋諸国接近の情勢下で、天下国家を治める者の心得や藩校改革などについて建白書を提出した。

 中川禄郎の最大の功績は、1853年彦根藩が開国方針を幕府に提出した「別段存寄書」(べつだんぞんじよりがき)の下書作成である。この中で、「交易は国禁だが、今と昔では時代が異なる。本来は相通じているのが世の道理であるから、積極的に海外渡航し貿易を振興すべきだ」とした。
 鎖国・攘夷については、地理的に日本は海に囲まれ海岸線が長く防衛に適さないこと、軍艦もなく防衛力は極めて脆弱であること、長年の鎖国のせいで近代戦に用いる人材がないこと、経済的にも江戸が大消費地で江戸湾を海上封鎖されればたちまち困窮すること、米国は領土ではなく交易を求めていることを理由に、取るべき戦略ではないとした。
 その翌年(1854年)に中川禄郎は58歳で亡くなる。この年、日米和親条約が結ばれた。

人物評伝の記述法
 角さんは自分流の人物伝記述法を話してくれた。こちらも面白かった。
基本は、ノンフィクションで書くことだ。
第一に、足で書く。その人物に関わりのありそうな人たちに会い、小さなことでも聞き出す。
第二に、年表を作成し、人物が生きた時代背景をよく知る。
第三に、資料・情報を多く収集しポケットファイルに整理する。
第四に、書きたいことを全部箇条書きにし、それを4つのパート(起・承・転・結)に振り分ける。
第五に、その人物に対する思いを更に深めるために、墓地を訪れる。
第六に、遺族・末裔のためにもプライバシー保護に細心の注意をする。

「中川禄郎」伝を分解する 
 こう言われると私にもできそうな気になる。その目で角さんの「中川禄郎-直弼の開国論を支えた藩校教授」を見てみよう。この評伝は、5つのパートに分かれている。

 第一の部分は、彦根市薩摩の善照寺の場面から始まる。ここでは中川禄郎が少年期に会ったかもしれない伊能忠敬の測量調査団からはじまり、寺の執事であった養父のこと、父の小原君雄のこと、京で学問を修め長崎に遊学し、藩校教授となり、直弼の開国論を支えたことなどが明らかにされる。

 第二の部分は、歴史書や小説における中川禄郎の取り上げられ方について、具体的にいろいろな作家の文章を引用して角さんの思いがつづられている。

d0087325_2036715.jpg 第三の部分は、中川禄郎の「仕事、業績」があげられている。頼山陽との漢詩を通じての交遊、「西洋一覧」という著作、直弼への藩主としての心構えを講じた建白書、藩校改革の建白書、禄郎が育てた優れた人物達(寺村友賢、田中半十郎(芹波)、渋谷(谷)鐵臣、奥野武綱)と末裔の中川留三郎の功績などが丁寧に紹介されている。

 第四の部分は、禄郎の「人柄」である。屋敷跡の紹介から始まって、文献にみる人物評が記される。それによると、開国論を主張した禄郎は「剛直にして櫂貴を避けず」とされているが、他方で「淡泊を好みて閑散に就く」と評される。彼の漢詩には、一輪の花の風雅をひとり楽しむ様子が見て取れる。一見矛盾する評価だが、彼の開国論が事実に基づき論理的に組み立てられているところをみると、いわゆる冷静な「ものがよく見える」人であったようだ。

 第五の部分は、禄郎の「晩年」である。墓にまつわる逸話が紹介され、天保14年(1843年)から嘉永4年(1851年) 禄郎48歳から56歳までの日記を漢詩で記録した「漁村詩稿」の発見が記される。さらに、臨終の詩と澁谷(谷)鉄臣の追悼文が紹介される。その後、直弼の大老就任、遣米使節団派遣、桜田門外の変という彦根藩の命運を左右する歴史の荒波が書き込まれている。

「漁村詩稿」の発見と今日的価値
 今回のサロンで注目されたのが「漁村詩稿」である。これは、日常の出来事を漢詩に表現したもので、日記のように連続している。前日の漢詩を書き直しているところもある。これによって、当時の文化人達がいろいろな場所に行って漢詩を詠み交友していることがわかり、その美意識も含めて、大変興味深い。
 この日記から、交遊した場所が城下町の絵図で特定できる可能性が高い。禄郎は、どこで、どのような人と景観を楽しみ何を感じたのか。同じ場所で現代人はどう感じるのか。それが解れば、彦根の町の文化的景観も価値が一層高まるかもしれない。

歴史を知る意味
 角さんの話を聞いていて、ふと歴史を知って何の意味があるのだろうという疑問が浮かんだ。
 まず考えられるのは、角さんのように歴史に埋もれた未知のことを知りたいという根源的欲求だろう。
 その他に、普通の生活者である私たちには「自分の立ち位置を知る」ということが重要だろう。私達は、過去の歴史的事実の上に立っている。歴史によってどこから来て、どこにいるのかを知ることができる。そして、自分がどこへ行くのかを大まかにでも決めることができる。それが歴史の意味ではないだろうか。(By E.H)

次回予告 第11回辻番所足軽サロン
日時 平成22年3月21日(日)10時30分~12時
場所 芹橋二丁目 太田邸(足軽屋敷)
「うるわしき湖国よ、永遠に 琵琶湖博物館ギャラリー展から」(その2)
大橋 洋 さん(彦根市在住)

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by hikonekeikan | 2010-03-01 20:48