NPO法人 彦根景観フォーラム

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談話室「それぞれの彦根物語」2011.10.15

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by hikonekeikan | 2012-01-31 13:51 | 談話室「それぞれの彦根物語」

昭和30年代の彦根と湖東、そしてハイブリッドな未来へ

それぞれの彦根物語87
  昭和30年代の彦根と湖東
                 野村しづかず さん

d0087325_0294354.jpg  2011年12月17日午前10時。花しょうぶ通りの寺子屋力石の軒の瓦には、前日の雪が解け残って白い帯を作り、そこに時折しぐれ雨が降りかかる寒い朝となった。こんな日は人の集まりも悪いだろうと予想していたが、次々に人が入ってきて、開始時刻には35名近くになり、狭い町屋は一杯になった。その後も人は増え続け、最後には私も含め5~6人が「通りにわ」に立って話を聞く状態になってしまった。
 
 野村しづかずさんは、スーツジャケットにネクタイをきちんとしめ、正座で、入ってくる同級生や元同僚という人達と挨拶をかわされていた。緊張した面持ちと細い縁の眼鏡ごしにのぞく神経質そうな目が印象的だった。

「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」
 野村さんは、昭和30年に彦根東高校を卒業し関西電力に就職、彦根営業所に6年間勤務した。昭和31年夏、20歳の野村さんは念願のカメラを買って変化する30年代の滋賀を精力的に撮影し始める。そして、平成8年の定年退職後、撮りためた3000枚の中から昭和30年代の50カットを選び写真展を開催していたところ、嘉田由紀子さん(現滋賀県知事)から、撮影した場所の現在の様子を取材し、比較して出版することを勧められる。そして、平成19年11月、「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」を自費出版された。これが日本自費出版文化賞を受賞。本は完売し現在は図書館でしか見られないという。

 嘉田さんは、序文で「『自分今昔』ともいえる写真でつづる自分史を提案させていただいた。写真の「自分化」と「立体化」が埋め込まれている。自己表現であり時代伝達であることに成功している」とその成果を讃えている。

彦根・湖東の昭和30年代
 「明治維新や第二次世界大戦の敗戦の時、政治や社会の体制は変わったが、人々の暮らしや生業、地域の環境や風土までは変わらなかった。ところが、昭和30年代はくらし、生業、地域の景観や環境までが大きな変化を遂げた。それまで連綿と続いてきた自然と人の暮らしのつながりが切れ始めた。」と野村さんはいう。

 彦根物語で紹介された彦根・湖東の30年代は、昭和31年11月19日の東海道本線全線電化の写真で始まった。試験電車が彦根駅のホームに到着し、引率された小学生達が日の丸の小旗を振って出迎えた姿を捉えている。対照的に最後のSL「雲仙」が彦根の踏み切りを通過する姿も映し出された。また、昭和31年12月の写真では、街頭テレビが塀の高さに設置され、防寒着を着た沢山の人達が見つめていた。

 次に農業の変化が紹介された。牛と人の力による水田の田起こし、田植え、草取り、稲刈り、はさがけの光景や、湖辺の水郷地帯で田舟を運搬手段として利用する姿が、耕運機の登場で牛がいなくなり、干拓・圃場整備で水路も田舟も姿を消した。
 漁業では、彦根で行われていた地引き網漁の姿が映し出された。担い手は沖之島の漁師達で、信長以来の朱印状で漁業権が認められていたという。しかし、40年代から共同作業ができなくなってしまう。淡水真珠の養殖も全盛期で、彦根の曽根沼での母貝への核入れ作業が写された。
 この時代は、琵琶湖の水が飲めた時代であった。簡易水道が整備される前の昭和34年に沖之島で撮られた写真には、少女が琵琶湖の水を家に運ぶ姿が写っている。

 際だつのは、大規模開発だ。昭和39年4月に名神高速道路栗東-関ヶ原間が開業したが、昭和37年4月に撮られた写真は、愛荘町松尾寺の山をブルドーザーが削り崩す現場を背景に、工事をみる菅笠を被った旅の僧の後ろ姿と、その脇に座って横を向いてキセルをすう手ぬぐいで頭を覆ったお爺さんが写っており、二人の人物と工事現場のコントラストは、まるで黙示録のようだ。東海道新幹線の突貫工事も行われていた。さらに、大きく地形と自然と景観を変えたのが内湖の干拓だ。干拓前の津田内湖の全景を八幡山から撮影した昭和32年11月の写真は、素晴らしい景観と自然が失われたことを痛感させる。

 町の姿も大きく変わった。彦根市の佐和山では、野田セメントが工場を拡大し、松原では湖上観光船が出入りする度に人力で橋を回転させた。両岸には自転車とバイクが船の通過を待っていた。町で買い物をする女性は、背中にも両手にも荷物を一杯もって歩いていた。子供たちは、群れをつくり、川や野原で遊んでいた。
 乗り物はバスが全盛で、近江八幡市小舟木の朝鮮人街道の松並木をボンネットバスが道幅いっぱいに土煙をあげて走る姿があった。昭和34年8月には彦根で初めての自家用車モーターショウが写されている。
 30年代のフィナーレは昭和39年10月1日の東海道新幹線開業と10月10日の東京オリンピック開催である。野村さんは米原駅から初めて新幹線にのり、カメラを持って東京オリンピックを見に行った。

 どの写真も、古いものと新しいものとのコントラストが際だっている。当時流行した映画「ローマの休日」に影響されてスクーターに乗りデートする若い男女と、手押し車に麦の束を満載して運ぶおばあさんが田舎道ですれ違う瞬間をとらえた写真はその典型だ。3分割法の手本のような構図と奥行きを感じさせる近景・中景・遠景の構成が強く意識されている。
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振りかえる30年代
 30年代は現象的には、電車、テレビ、家電製品とバス、スクーター、耕運機が登場し、高速道路、新幹線、大規模干拓、琵琶湖大橋などが出現するが、背後には石油エネルギー革命があった。このエネルギーの利用により、人々は、便利・速い・強い・大きいを実感できた。そして、自然からの自由、過去からの自由を理念に大量消費時代の坂道を登り始める。その先には、公害、日本列島改造、バブルがあった。そして、人と人との扶助の関係(自由な個人主義の台頭)、自然に従う生き方、子供の生きる力、地域のコミュニティ力が衰退していった。

 嘉田さんは、序文で「人が自分の身体で生きていた実感を良くも悪しくも強く感じていた最後の時代」という。そして「30年代に思いを至らすことは、単に懐古趣味としてのノスタルジーではなく、滋賀の、そして日本の未来を照らす大きなヒントにもつながるのです」と書いている。同じ言葉を野村さんも強調した。
 では、30年代を見つめる意味は何か、未来への大きなヒントとは何だろうか?


ハイブリッドな未来
 野村さんは、「写真を撮った当時は牛や地引網がなくなるとは思っていなかった」と言った。今だからわかる。50年たって歴史的に俯瞰できる現在になって初めてわかることがある。この「歴史的俯瞰」の上に、現在を仮に坂の上の社会とすれば、昭和30年代は、坂の上をめざして脇目もふらずに登っていた上り坂の社会だった。そこを賞賛するつもりも批判するつもりもない。歴史的俯瞰の上に立って、現在から未来に必要なのは、右か左かではなく、右と左を統合したハイブリッドな未来像だ。


津田内湖の写真
 談話の中で大きな話題になったのが、津田内湖の全体を八幡山山頂から撮った写真だ。
聴衆の一人だった滋賀県立大学の柴田いづみ教授は、こういう写真を探していたという。教授は、近江八幡市を中心に湿地保全のフィールドワークを学生達と住民とで毎年実施している。次回にはぜひ使いたいとおっしゃった。

 この話を聞いていて、「魚と恋に落ちた僕」(ダン・バーバー)という話を思い出した。
 ダンはシェフで、ある時とてもおいしい魚に出会う。その魚は、南スペインのセヴィーリアにあるヴェラタ・ラ・パルマ養殖場でとれたものだ。(滋賀県立大学はセヴィーリア大学との交流協定を2011年に締結している)
 この養殖場は、グアダラキビール川の河口にあって、1980年までアルゼンチンの業者が湿地を干拓にして肉牛の放牧をしていた。この会社は倒産し、1982年スペインの会社が土地を買い取り、運河の水を逆流させて内湖に戻し、109km2の養魚場を作った。(びわ湖の南湖を二つ合わせた広さ) 
 この養殖場の特徴は、魚に餌をやらないことだ。さらにフラミンゴなどの鳥が60万羽もいて、魚と卵の20%は食べられてしまうのに放置している。効率は悪い。生物間の食物連鎖を管理し、自然の生態系の恵みを受け取るだけ。
 しかし、健康で、なにより魚がおいしい。普通の魚は皮に苦みや臭いがあるので取り除くが、ここの魚は皮がおいしい。水が健全だから皮で汚濁物質や化学物質を防ぐ必要がない。これこそシェフが待ち望んでいたおいしい魚と未来の養殖、そして本来の漁業だ。
 「相手を知れば知るほど好きになるのが本物の恋だ。僕はここの魚と恋に落ちた」、という話だった。


クリエイティブ経済にいる我々
 この養殖場は、これまでの発想とは真逆だ。こういう形に農業や漁業が変化するのが理想だ。ともかく、おいしい、安全、環境によい、健康だ、昭和30年代の魚のように。それがブランド価値を持つ。クリエイティブ価値といってよい。
 人工飼料と化学物質を投与され過密に育てられた養殖魚をシェフは使わない。少々高くてもおいしい天然魚、それも地元で取れた魚を、鮮度と素材を生かす腕のいいシェフが料理する。それに喜んでお金を払うのがクリエィティブ経済だ。それが現在の先進国の経済だ。

 「それで世界の食糧不足が賄えるか」という主張にはウソがある。まず、この国は大量に食料を輸入し大量に廃棄している。そして世界には10億人の飢えた人々がいる。食糧不足の真の原因は、狭い農地と機械化の低さによる「低い」農業生産性にあるのではない。

 さらに、この先に見込まれる食糧不足はいわゆる「農業技術の革新」では解決しないだろう。なぜなら、真の原因は、技術の未熟ではなく資源の枯渇にあるからだ。土壌の喪失、森の喪失、水源の枯渇、砂漠化、魚の激減、多様性の喪失など、いずれも資源の枯渇を意味する。

 今、30年代を見つめる意味がそこにある。坂の登り口である30年代と坂の上の現在を俯瞰すれば、未来へのヒントは自然の資源・エネルギーの回復・再生と持続可能な利用への転換にあることがわかる。そのための工夫の余地は極めて大きい。クリエイティブ経済は、その工夫を創造的と評価する。必要なのは、これまで捉われてきた発想の転換だ。


城下町の写真
 私には、もうひとつの期待があった。
 30年代の彦根市芹橋の足軽屋敷地を写した写真だ。とくに路地の塀はどうなっていたのだろうか。野村さんなら必ず撮っているはずだと期待して、数日後、図書館で調べてみた。

 すると、武家屋敷の低い土塀が並ぶ狭い路地と、その手前でエプロンを来たお婆さんが手押し車を押している姿が目に飛び込んできた。土塀は漆喰が落ちて土壁がむき出しだが、塀の向こうに見える緑の木々とともに美しい町並みが続いていた。白黒の写真だったが、美しい。色が見えるようだ。
 ところが、それは昭和37年5月に大津市膳所1丁目旧小姓町、御徒町あたり撮影された写真だった。野村さんは、当時職場の先輩に誘われ、この町へ俳句の吟行に来たことがあると書いている。期待ははずれたが、とにかくその場所に行ってみた。多くの場合、こういう旅は失望に終わることを知りながら、行ってみないではいられなかった。

 12月26日、雪が断続的に激しく降る日だった。その場所はコンクリートの吹き付け壁またはブロック壁に変わっていた。沢山の電信柱が立って、遠くに大津プリンスホテルが雪に霞んで見えた。しかし、激しくなってきた雪の中をさらに歩いてみると、門も建物も古い形式をとどめたままの一角に突き当たった。今でも十分に美しかった。もし、この通りが保存・修景されれば、沢山の散策する人々でにぎわうだろう。歴史の恩恵を最大限に受け取るべきだ。歴史を否定するのではなく、歴史を活かして持続可能な活用をする。大津・膳所の旧東海道沿いの悲惨な変わりようを見ているだけに救われる思いがした。歴史資源を枯渇させるのは、未来への贈り物を枯渇させるのと同じだ。
 雪の中で、私は急に元気になった。ひょっとして恋に落ちたのかも? (By E.H)
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by hikonekeikan | 2012-01-27 07:00 | 談話室「それぞれの彦根物語」