NPO法人 彦根景観フォーラム

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辻番所の新しい見方 足軽辻番所サロン・芹橋生活26

 足軽辻番所サロン・芹橋生活26
 12月18日(日)10:00~11:30 太田邸


 「足軽組の組織と掟」
  -善利橋12丁目鉄砲40人組の事例から-


  母利 美和  (彦根景観フォーラム理事・京都女子大学教授)

d0087325_2143193.jpg 市民トラスト運動によって解体をまぬがれ、現在は彦根市によって解体修理中の芹橋12丁目の辻番所。江戸時代にその辻番所を有していた善利橋12丁目の鉄砲40人組のルールブック「御組(おんくみ)歴代(れきだい)規矩(きく)留帳(とめちょう)」が母利先生によって解明され、当時の足軽組の組織と運営の枠組みが明らかになった。

善利橋12丁目鉄砲40人組とは
 発祥は、天正18年(1590年)上野国で海老江庄右衛門を物頭に鉄砲20人組として成立し、慶長9年(1604年)以後、彦根城下町の整備に伴い善利橋12丁目に移転、元和元年(1615年)足軽20人を加増されて40人組となり、明治まで続いた。
 12丁目の通りに面して全員が住んだとの説もあったが、近年、12丁目の北側の一部を除いた36戸と11丁目西側の6戸を加えた42戸であったことが判明した。組内に矢場(鉄砲の射撃場)と辻番所を設け、射撃の流儀は「田布施流」を代々継承していた。
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足軽組の組織
 足軽組を率いる「物頭」は、足軽より身分が上位で、別の場所に居住した。足軽組には、藩からの下級役人である「手代」2名が配属され、組に居住して物頭の代理を務めた。したがって、足軽組は40人の足軽と2名の手代で構成された。
 また、足軽は10人で「小屋」という組をつくり、各組に2人の「小屋頭」をおき、計8名の小屋頭の中から1人が「年番小屋頭」となった。さらに、「世話番」が小屋ごとに2名指名され、年番小屋頭のもとで運営の実務を担った。年番小屋頭は足軽間の負担の均等化や矢場・辻番所の運営、小修繕、相互扶助などの実施責任者であり、自治組織を統括した。同時に会計責任者でもあり、世話番から2名を「帳元」に指名し、会計実務を行わせた。
 こうした組織と運営ルールの枠組みの中で、42人の足軽と手代、その家族、武家使用人が、個々の生活を営み、それぞれの思いを持ちながら人生を生きていた。

物頭と手代の役割
d0087325_21555224.jpg 今日の日本では、企業や団体などの職業組織と地域社会のコミュニティ組織がほぼ完全に分離している。しかし、農村という言葉が象徴しているように「農業」という職業と地域は一致している時代が長かった。江戸時代の彦根藩では、兵農分離が徹底し、兵は都市内で身分別に居住地が区別されていた。足軽は藩の軍事組織の末端であった。

 物頭-手代-小屋頭という組織と運営ルールは、この職業組織の一部とみることができる。この組の歴代物頭は、初代から236年間で23人が交替している。激戦を経てきた初代物頭が42年、二代目も30年近くその地位にあったが、平和な時代になると一部の例外を除いて長くて10年ぐらい、短いと1、2年で交替している。実は、これでも交替は少なく、他の組では同期間に60名くらいの交替があった。

 手代は、江戸詰の交替・継合の願書、跡目相続、跡養子、妻縁組、隠居、改姓の願書、休暇願、庭方・普請方などへの下役勤務願、不始末による身分伺いなどが足軽から手代宛てに提出されると受理し、物頭に報告した。また、新参の足軽が物頭の所に出向く新参見分に付き添うとともに、養子相続で足軽となったものは手代自身が見分した。正月12日の矢場開きでは、射撃競技「御帳前打(おちょうまえうち)」で「中附」(あたりつけ:命中率を記録する役割)を行うほか、鉄砲や道具の管理もしたが、自身は鉄砲を持たない完全な文官であった。

 小屋頭は、足軽組の「御備」に設けられた10人の組合小屋の頭と位置づけられ、御上から「組の行状諸事取締」が役目とされていた。そして、組の惣代として物頭の屋敷にお礼や応答のため伺うこととされていた。


年番小屋頭と世話番の役割
 コミュニティ組織の色彩が強いのが、年番小屋頭-世話番である。その特徴は、自治組織を統括する年番小屋頭(年番)が1年ごとに交代する点である。

 年番が1年単位で引き継ぐ帳面には、諸渡り方定帳(江戸詰、京都使、多賀大社警備などの手当てを渡すための実績帳)、月々御扶持定帳(毎月の扶持の台帳)、元入帳・同年中払帳(組への収入と支出の出納帳)、諸虎口帳(他国への護衛等の当番と実績の記載帳)、組済祝儀銀帳(新入、結婚、番上がりの際の祝金の収入帳)、大講定帳・元払帳、連判借り諸帳面(建物修理費などの返済金の年賦帳)などがあり、さらに、矢場や辻番所の道具類も預かった。 
 組の会計には監査制度があり、正月11日に年番の家で小屋頭全員が揃って、平足軽から選ばれた中年衆と小屋頭下3人に元帳・払帳を見せて1年分の勘定を確認し、次の年番に送るようルール化されていた。

 世話番は、年番に相談のうえで買い物をし、年番から金銭を受け取って支払い、それを年番が勘定帳に記載した。勘定は月締めで、翌月1日に年番のところに世話番が寄合い、本帳へ収支を書き写し、残り銭を翌月送りとした。宝暦頃からは、帳元が年番から元帳・払帳を預かる方式になり、必要により年番から金を受け取り支出し記録した。

足軽組自治組織による運営
 年番が引き継ぐ帳面の中に、「諸虎口帳」がある。平和な時代、足軽は、江戸詰、辻番、火消当番、護衛、領内の米見、舟への同乗、土木工事、建築工事への動員などの様々な役儀を勤めた。「虎口」とは、順序を定めた名簿に役儀を勤めた場合●の星を付けたものを指し、用務ごとに「虎口」が作られ、組全体にかかる「虎口」は年番小屋頭が管理した。これは、輪番制による足軽の負担の均等化が狙いとみられる。
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 組単位で支給される支給米を分配する場合も、虎口による当番制で勤めた。御切米は小屋ごとの虎口による切米番が、月々御扶持方は手代、普請方引人を含む42人の虎口によった。また、矢場、辻番所に土地を提供した足軽が広さに応じて年貢を受け取ること(矢場年貢、辻番年貢)もルール化された。さらに、米の換金を共同で行う売米は、1俵につき俵銭3文を世話人に渡すことと定められていた。

相互扶助と共同意識
 御組歴代規矩留帳には、足軽が病死したり仕置で隠居の場合、家族に月1斗5升の情扶持方を42人が援助する、世帯を持つ足軽夫婦が病死の場合、香典は1貫文とするなど、相互に扶助することを規定していた。また、「大講」の方法も規定していた。「大講」は、42人全員が講員となって一定の積立を行い講員またはそれ以外にも貸付と返済を行う金融扶助制度で、その益金は組の共同借金の返済などにも充てられた。

 これらの規矩は、誰がいつ作ったのかが不明で、古来からの継承と表現され、問題が生じれば「一統で相談の上」決めるとして、自治による決まりであることを強調している。さらに、今は新参者でもいずれ小屋頭になるので、組全員がルールを守り、組を存続させていくことが重要であると記載している。

 相互扶助の制度は今日の自治会では廃れたが、年番制度は、自治会でも寺や神社の運営組織に伝わっている。その主眼は、地域共同体の維持であり、そのために構成員の負担の均等化と全員一致が重視される。民主的で平等な半面、短期間で責任者が交替するため変化に対応しにくいというコミュニティ組織共通の側面がある。

辻番所の新しい見方
 御組歴代規矩留帳では、辻番所は「御普請出人衆の番所」とされ、仕来を聞き合わせ勤めることとされている。土木工事等への動員と思われるが、動員は2人と定めており、もし辻番の時に3日連続で動員されれば、別に1人応援をだすとしている。また、火事や出水の時は小屋頭の4人が辻番所に残って警戒し、他の4人が鉄砲組全体を率いて消化や水防に出動すると決められていた。 
 辻番所に備える道具は、寄棒2本・薬研2舟・石臼・皿桶・石持棒・大綱1・紐綱1・虎皮(こひ)1さき、夏は蚊帳1張、提灯1張などとされ、辻番所での細工は敷物を持参すること、畳の上でしてはいけないと決められていた。
 
 辻番所は、これまで城下町に侵入する不審者の見張り場と思っていたが、これは職業組織の視点からみた役割であり、自治組織の運営という新しい視点からみると、自身番夜回りの順番を辻番所に張り出したりして、さまざまな組の行事や運営が行われた中継点・事務所とみることが可能なように思われた。
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歴史に学ぶ防災リスクへの対応
 もう一つの注目点は、大火事の後、彦根藩が苦しい財政状況の中でも足軽屋敷の板屋根を瓦屋根に変えた歴史的事実だ。これは、現在でも同じ教訓が通用する。つまり、彦根藩は、通路を広げたり、建物を間引いたりして類焼を防ぐのではなく、建物の耐火性能を向上させることで火災に対応した。

 歴史的な路地の狭さは、震災時には塀や建物が倒壊し避難路や救助路が塞がれる危険が高いが、建物の耐震性を向上させることでその危険は減らせるし、人命保護等を考えればまず第1に建物の耐震性・耐火性向上が優先されなければならない。そのうえで、背割水路道の活用などを組み合わせれば歴史的路地をまもりつつ防災対策も実現できるのではないだろうか。(by E.H)
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by hikonekeikan | 2012-02-04 19:27 | 辻番所・足軽屋敷