NPO法人 彦根景観フォーラム

談話室「それぞれの彦根物語」2012.7.21

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# by hikonekeikan | 2012-08-08 18:17 | 談話室「それぞれの彦根物語」

足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった

足軽辻番所サロン 芹橋生活31

普請方手代日記「諸事日記」をよむ(1)

  母利美和 (彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)

 彦根景観フォーラムでは、江戸時代に築かれた彦根藩最大の足軽組屋敷地・芹橋で、毎月第3日曜日の午前10時30分から足軽屋敷太田邸をお借りして「辻番所足軽サロン 芹橋生活」を開催しています。

 歴史と調和したまちづくりをめざして、保存・再生が進められている辻番所・足軽屋敷をどう活用するのか、まちの特徴である歴史的な路地を活かした、若者も高齢者も安心して住める「まちづくり」をどう進めるかなどについて、これまで話しあってきました。

 今回は、芹橋8丁目の芹川堤防に接して建っていた彦根藩御普請所に勤務した足軽の日記「諸事日記」を、母利美和先生(京都女子大学教授・彦根景観フォーラム理事)と一緒に読み解き、ベールに包まれた足軽の仕事の実態を探りました。


兵士、警備員、そして下役人としての足軽
d0087325_23413761.jpg 足軽の仕事(役儀・やくぎ)は、第1に軍役(ぐんやく)である。鉄砲や弓で戦う足軽は、安土桃山時代から江戸初期の合戦の主力であった。
 第2に、城や門などの警備がある。これは、城中番と呼ばれ、負担が軽いため隠居した足軽が門番として働く「番上がり」のしくみもあった。
 第3は、各役方(役所)での下役人としての仕事である。彦根藩では、行政機構として普請方、作事方、町方、筋方などがあり、普請奉行、作事奉行、町奉行、筋奉行などがおかれていた。その奉行のもとに実務を担う下役人がいたが、その多くは足軽などの下級武士であった。役所の中でも最も足軽の人数が多かったのが普請方であった。
 
 奉行の配下で下役人を管理する中間管理職が手代である。手代は足軽身分であり、普請方のほかに、6名の筋奉行の下で地方の村を支配した筋方の手代、舟方、作事方などの手代がいた。なお、町同心(町廻り衆)も、組足軽ではないが池須町の足軽居住区に屋敷を持っていた。

 「諸事日記」は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、普請方手代見習いに任命された文化8年(1812年)から文政7年(1825年)までの13年間の日記である。この種の記録としては、文政7年(1825年)から文政10年(1828年)までの小野正好による「官事録」、正好の子にあたる小野・助三郎・正虎による嘉永6年(1854年)からの記録「公用留」、同じく正虎による文久2年(1862年)からの「公用留」がある。足軽小野家は、4代から5代にかけて普請方手代を務めていたことになる。


普請方を支えた足軽達の役割
d0087325_23425050.jpg ところで、普請方は今日の土木事務所にあたる役所で、城下町の石垣や道路、河川などの整備と管理を担当し、建物の建設や修理は、作事方が担当していたとされている。しかし、藩によってその役割は異なり、また時代によっても異なるようだ。

 母利先生は、時代ごとの普請奉行配下の役人について、その役名と人数、出身階層を明らかにされた。
 それによると、天保7年時点で65種の役名があり、299人の下役人がいるが、このうち足軽身分は40種の役名で221人、旗指身分が12種の役名で39人、扶持人が13種の役職で39人であった。

 これが天保11年になると、足軽が役職名で1増、人数では249人で28人増、旗指が42人で3人増、扶持人が40人で1人増と、やや増えているが大きな変化はない。

 ところが、元治元年(1864年、明治維新の4年前)でみると役職名が激減し、人数も足軽が58人と天保11年より191人も減少、旗指は26人と16人の減少、これに対して扶持人は39人の1人減少でほぼ変わっていない。この激減の原因は、幕末の軍事対応で足軽や旗指は本来の軍役に動員されていたが、村に住み、藩から扶持米をもらって村行政を担当していた扶持人には影響がなかったとみることができる。



普請方足軽の経歴
 天保7年の普請方下役人のうち、足軽身分に注目してみると、最も人数の多いのが場所役の35名で、次に梃子役の29名、ついで奉行の代行である手代が13名、物書き役12名、看板役10名となり、あとの35の役名は10名未満である。

 母利先生が示された普請方下役名寄資料(天保7年)により各役人の経歴をみると、手代の経歴は不明だが、それ以外の役職では、梃子役、場所役を初期に経験している人が多い。つまり、普請方では、まず梃子役、場所役を経験し、次第に別の役職を経験していくが、他の役所との転出入は極めて少ないようだ。

 所属組を見ると、手代は善利橋六丁目に集まっているが、他は善利橋の一丁目から十五丁目まで広く分散しており、上組、中組、下組、北組が混じっている。


普請方手代の仕事と交際
 さて、「諸事日記」を読み解いていこう。なお、日付は旧暦であり、新暦より約1か月遅れるとみてよい。

d0087325_23521888.jpg 日記は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、、文化8年11月28日、手代見習いに任命され、善利橋6丁目に引っ越したところから始まる。

 文化8年11月28日、晴れ、藩の守野御林で松の枯木の入札に立ち会う。落札者から札を受け取り、切株に極印を打つ。手代の日夏永介、木村鉄太郎、小野が出向き、笠持一人、御役夫が同行した。12月11日は、雪降りで、上番衆町小山鹿之介宅で火事がおこる。仲間全員と両普請奉行が出勤する。現場検証を行い絵図を書く。仲間一人、絵図方一人、笠持一人、料紙箱一人、作事方より棟梁一人が参加した。絵図を承認し、普請奉行、作事奉行へ提出したというように、簡潔に事実と行動を記録し、出動した人物名を丁寧に記録していることが特徴だ。

 同日は雪かきを行い、八つ時分(午後2時頃)に佐和町魚屋文七がもめごとで傷害事件をおこし、奉行以下が出勤した。13日は、例年通り正月に門に飾る松飾りの手渡し、28日は城中と外堀周辺の一斉掃除の後、お歳暮を届ける。1月1日は家老と2人の奉行に年賀に参り、6日には見習いを仰せつかったことで手代仲間にお神酒をふるまう。その後、鏡開きなどの行事が続き、役所は11日から始まり、年間の出張当番を決め記録帳簿を作成している。


普請方のさまざまな仕事
 ここから文化9年の1年間の主な仕事をみてみる。

d0087325_081934.jpg 土木作業では、6月に芹川から取水する上水道に溜まった泥の浚渫、7月には善利川橋詰に集めた赤土を運んで巡礼街道を補修している。8月末からは、松原川口の腰石垣の修理にかかり、梃子役や銀山日雇を用い、米原や長浜などから5~6艘の舟を動員している。9月には沖之島へ石材の切だしの検分に出張する。ついでに長命寺に参詣している。11月から松原川口の浚渫を始める。藩南部の乙女浜から北部の山利子、片山にいたる港の舟を28隻も動員して1月ぐらい続けたとみられる。

 次は、城下町の草取りである。例年、足軽の出人(動員)によって大規模に行う。この年は3月に2回、4月に2回、6月に2回、7月1回、8月1回行っており、6月11日の草取りには足軽出人85名と記録されている。冬の雪かきも普請方の仕事で、11月、12月に6回の出動があった。

 意外だったのは、武具甲冑の虫干しが普請方の仕事である点で、6月12日の土用入りから城中の櫓に入り9日間、天候を見ながら実施している。さらに、火事や傷害事件の立ち会いにも普請方が出向いている。


藩主のお国入りとまつたけ狩り
d0087325_23545412.jpg 面白いのは、この年(文化9年)の6月に、藩主の初めてのお国入りがあったことだ。小野らは、藩主お国入りの連絡を聞くや家老にお祝いを申し上げに参上し、6月18日の到着時には、殿様が城下町に騎乗して入ってくるのに対し、普請奉行、作事奉行達が出迎えて並ぶ順番、小野らの手代の並ぶ場所が記載されている。切通し桝形より内側に順番に腰を落とし蹲踞の姿勢を取っていく。その先に家老や他の奉行が並んでお迎えする。見物する人の数も夥しいと記録している。

 6月29日は、殿様の城中見回りで二十間櫓から着見櫓までを普請奉行、作事奉行が案内した。奉行らは櫓の下に平伏し、小野らは、御宝蔵後ろの方に下伏した。その後、殿様は、西の丸で武装した足軽67人をご覧になり、11月10日には、足軽鉄砲隊の射撃訓練を、御用米矢場で上覧されたと記録している。

 10月3日には古城山(佐和山)で、藩主らによるまつたけ狩りがあり、小野らはその準備に出向いている。大洞弁財天から船着き場、弁財天からお茶所までの道筋を掃除し、松茸を入れる桶や美しく飾ったかごを数か所に配置した。そのあとの10月6日には、目付や奉行に山でまつたけ狩りをしてもよいと許しが下り、里根山に役所から酒や豆腐などの料理を送っている。

 12月28日には、両奉行と親戚に歳暮に行き、31日には役所で25匁をいただく。そして、正月の年賀、鏡開き、お役所開きとつづく。


日記は未来への贈り物
 今回は1年分を読み解いたが、いつ、どこで、だれが、何をしたかが簡潔明瞭に書かれている。地図に記入していけば大変おもしろいだろう。日記はまだまだ続くが、先読みした範囲では、善利川の出水、堤防の補修、中山道の本陣で大名行列を迎える準備、藩内各地の街道と山林の検分の記載も見えた。
次回が楽しみだ。

 ところで、小野・助三郎・正好は、文化8年(1812年)から200年後に、彼が書いた「諸事日記」を私たちが読むとは、想像もしていなかっただろう。日記はただの記録ではなく未来への贈り物なのだ。(By E.H.)


次回は、

足軽辻番所サロン「芹橋生活」32

「官事録」を読む(2)

 母利美和さん(彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)


今回の続きで、普請役手代の小野正好が書いた文政7年(1824年)からの公務の記録を読みます。

平成24年7月22日(日)10:30-12:00
芹橋二丁目足軽屋敷太田邸
資料代 100円

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# by hikonekeikan | 2012-07-10 23:58 | 辻番所・足軽屋敷

談話室「それぞれの彦根物語」2012.6.22

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# by hikonekeikan | 2012-07-09 13:53 | 談話室「それぞれの彦根物語」

平仮名は、美しくなければならない

それぞれの彦根物語92

毛筆・硬筆・・
  活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ 


                           田中貴光さん (書家)

平成24年6月23日(土)10時30分~12時 
ひこね街の駅「寺子屋力石」

d0087325_22231089.jpg 6月の花しょうぶ通りには、早くも夏の日差しが降り注いでいた。しかし、寺子屋力石に入るとひんやりとした町屋特有の涼しさを感じる。
 今日の彦根物語は、書家の田中貴光さんだ。寺子屋力石には、書道を習っていると思われる女性がたくさん来られていた。若い人も年配の人もいる。いつものにぎやかなお喋りとは違い、話し声がおとなしい。隣に座っている若い女性に声をかけてみると、彼女はアメリカ人で、週3日愛知県の企業で働き、残りの2日はミシガン州立大学連合日本センターで日本文化を学んでいるという。彦根でホームステイしていて、ステイ先の若い女性と一緒に来ていた。小声だが的確な日本語だ。
 そうしているうちに開始時間となり、田中貴光さんが紹介された。

硬筆も毛筆も一流
 田中貴光(きこう)さんの貴光は雅号だ。小学校一年から始めて60年弱の書歴があり、多くの展示会に出展、「大書心会」硬筆・毛筆大賞を受賞。硬筆、毛筆ともに文部省認定書写認定1級である。この認定は、客観的な技量判定基準を持つ唯一の公的認定で、1級は指導者としての資格が認められる最高位である。

 田中さんのすごさは、最高位を硬筆でも毛筆でも持っている点にある。漢字も仮名も、大きな字も小さな字も、太い字も細い字もすべてを極めている。当然ながら、彦根を中心に5会場で書道教室を開いている。

 すばらしい実力を持つ田中さんだが、姿からは芸術家らしい華やかさが伝わってこない。小柄な身体に長く黒い上着を着て、黒いスラックス姿という黒づくめの服装で、大きな丸テーブルの隅でうつむき加減に話される。
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平仮名は、美しくなければならない
 田中さんの主張は、わかりにくかったが、あえて一言で言うなら「平仮名は美しくなければならない」ということだ。日本語独特の文字である平仮名、その美しさの追求のために、田中さんは、現在では使われなくなった変体仮名を使って書の作品をつくる。
 「活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」とは、平仮名の美しさをどこまでも追求する田中さんの方法を示していたのだ。

変体仮名とは
d0087325_22285858.jpg 現在、私たちは、「ア」に当たる平仮名に、「あ」(「安」に由来)の字ただ一つだけを用いている。しかし、明治33年以前は、「ア」の平仮名を書くのに、「安」に由来する「あ」と、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字を自由に用いていた。この安・阿・悪を仮名の「字母」というが、平仮名は、字母の音(字音、字訓)だけを使ったもので、意味による使い分けはない。(字体は右の写真を参照されたい。)

 一音に一仮名文字と決められた時、「あ」以外の、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字は異体の字として教えられなくなったが、当時は、まだ使われており「変体仮名」と呼ばれた。つまり、「あ」には2つの変体仮名が、「い」には、「意」、「伊」、「移」を字母とする3つの変体仮名があり、明治以前は、平仮名・変体仮名という区別がなく、平仮名を使うときは、さまざまな字体を自由に使っていたのだ。

 紀貫之の『土佐日記』、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』のような平仮名文学、井原西鶴の「日本永代蔵」(大金持ちになる方法)のような草紙物、また手紙や個人の手記なども変体仮名で書かれている。これが、現在の私たちにとって古い文書が読みにくい原因の一つになっている。

変体仮名で美しく
 当たり前のように思っているが、現在の活字になった平仮名文は、一音一字で書かれている。そこに、変体仮名を使うことによって、平仮名文はどのように美しくなるのだろうか。

 田中さんによれば、
①さまざまな形の文字を混ぜることにより、字面を美しくすることができる。
②同じ文字が文章の中で重ならないようにできる。
③字体により長さや幅が異なるので、一行の長さを調整したり、前の行の文字との間隔を空けてバランスをとる「散らし」ができる。
の3つの要因により、格好よく、変化をつけて流れるように平仮名を構成して書くことができるという。

 そして、どこに、どの変体仮名を使うかは、美に対するセンスの問題であり、字面の美しさ、バランスなどは古典に学んでいるという。
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平仮名の美を表現する
 田中さんの作品は、いずれも小さくて繊細な平仮名が流れるような書体で書かれている。

 作品1は、百人一首の全句を変体仮名を使うことで扇型に揃えて書くことができた傑作である。
 作品2は、寅年に書かれた作品で、万葉集から虎に関係する歌を集めて、中心に和歌を書くことで真中を散らした作品である。真中に一本の文字の列が上下に貫いているように浮かび上がる。
作品3は、掛け軸に扇型の文のまとまりを流れるように構成したうえで、源氏物語の活字本から変体文字を使って書き起こした作品である。
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 作品を観賞するポイントは、まず、紙に注目する。紙は、和紙の継色紙を使う。赤い料紙の上に別の色の料紙を継いでその上に文字を配置する技法である。

 次に、仮名は、右流れに振る形が美しいので、字体の結びを右流れに振っているかを見る。
 さらに、字の形と余白のバランスが美しいと感じられるかを観賞する。

 田中さんが作品を作るときは、まず、全体の形を構想する。その上で、変体仮名で形に表現し始める。一行目を見ながら二行目を書く。上の文字と次の文字の間の余白、右の行との間の取り方、字の大きさなどを調整する。そして、墨がかすれるまで書く。墨を継いだときの濃淡も一定のリズムを構成するように調整する。

 さらに田中さんならではのこだわりが、本来硬筆ではあらわれない「かすれ」などの毛筆の特長を硬筆で表現するテクニックだ。

平仮名の美意識と「倭漢抄」
 田中さんの話は、わかりにくかった。その原因は、活字文化に慣れた私たちには、毛筆で手書きの時代にあった日本の伝統に根ざした平仮名の美意識が実感できないからだろう。

 平仮名は、日本語独自の文字として、また多くの異体字を持つ文字体系として、平安時代が終わる12世紀にほぼ完成していた。その後は、一貫して平安時代のものが平仮名の手本とされてきた。

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 その代表が、藤原道長によってつくられたとされる国宝「倭漢抄」である。「倭漢抄」は、5月27日まで京都国立博物館で開かれていた近衛家の名宝展「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」に出展されていた。縹(はなだ)色(薄水色)や橙(だいだい)などの柔らかな色合いの紙に亀甲や唐草、鳳凰などの装飾文様が刷り出された美しい料紙を32枚も継いだ巻紙に、中国の白楽天らの漢詩文と、紀貫之や柿本人麻呂らの和歌がしたためられている。和歌の平仮名は、流れるようになめらかな柔らかな線で毛筆で書かれていて、独特の「雅(みやび)」な美しさを表現している。

 「倭漢抄」は、調度手本とよばれ、最も格の高い贈り物にされた。藤原道長は、書の名手に依頼して調度手本をいくつも作らせ、宮中の要人に贈り、出世競争に勝ち抜く手段にした。
 源氏物語も、道長が紫式部を起用して平仮名の物語を書かせ、完成後は数多くの写本を作らせ、宮中に配布した。そのようにして、道長は平安文学の流行の先頭に立ち、歌合せなどの華やかな文化サロンを演出して、宮廷政治をリードしたと言われる。 当時の貴族は、特に男女の恋愛では面と向かって逢うことが稀だったので、和歌が重要なコミュニケーション手段になった。貴族たちは、歌を贈り、歌を返した。そこでは、和歌の内容と文字や紙の美しさが交際の重要な判断材料となった。多数の調度手本や和歌集を贈った道長は、やがて天皇家との婚姻に成功し、最高の地位につく。
 この時に、日本の平仮名の美が決定づけられたといっても過言ではない。
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書家のカッコいいアイテム
 田中さんは、毎日10時に部屋に入り、作品づくりに没頭して1時に上がる生活を続けている。
 書家というと、彦根では、「日下部鳴鶴」を連想する。明治三筆の一人で、 近代書道の父と言われた。白いひげを豊かにたくわえた紋付羽織姿の老人の写真が思い浮かぶ。この世界では、田中さんはまだまだ若い方だ。

 ところで、田中さんの胸に、古い和本の表紙を付けた手控え帳のようなものが入っているのに気付いた。これは、なんだろう。ぜひ聞いてみたくなったが、機会を探しているうちに彦根物語が終わってしまった。
 もし、それが手控え帳で、田中さんがさっと取り出して、和歌を毛筆で書きつけているとしたら、それは相当にカッコいい。(By E.H.)


次回のそれぞれの彦根物語93は、

「彦根の『殿様文化』を打破するためには」

山田 貴之さん(滋賀彦根新聞社編集長)

日時 平成24年7月21日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
コーディネーター: 山崎 一眞(彦根景観フォーラム理事長) 

お楽しみに。
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# by hikonekeikan | 2012-07-01 23:30 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.5.19

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# by hikonekeikan | 2012-06-01 14:20 | 談話室「それぞれの彦根物語」

屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91

それぞれの彦根物語91

鍾馗さんにはかなわぬ、波兎

   杉原 正樹 (DADAジャーナル編集人)

2012年5月19日(土)@ひこね街の駅「寺子屋力石」


d0087325_2282790.jpg 奇妙で人の気を引くタイトルだ。おまけにおきて破りの読点が打ってある。おそらく「波兎(なみうさぎ)」という言葉がわかる人はいないとみて、屋根の上にのる鍾馗(しょうき)さんを導入したのだろう。知名度があり人気上昇中の鍾馗さんにはかなわないが、波兎というキュートなうさぎ達が屋根にいるんですよという意味ではないだろうか。
 声に出して読んでみると、「鍾馗さんにはかなわぬ、(一拍)なみ~うさぎ~」と大見栄を切る仕掛けらしい。

 こんな凝ったことをする杉原さんは、DADAジャーナルの編集人。DADAジャーナルは、読売新聞に月2回日曜日に折り込まれる湖北・湖東地域限定のフリーペーパーで、32,000部を発行する。1989年から始まり2012年5月13日で538号となる。発行所は(有)北風寫眞舘(編集・デザイン工房)で、杉原さんが代表だ。ペンネームで記事も書く。言葉へのこだわりも見える。協力は淡海妖怪学波(派ではない)で、これも彼が代表である。

波の上をはねるうさぎ達
 「波兎」とは、波の上をうさぎがとびはねて走っている文様で、神社、寺院、古民家の屋根瓦や欄間などの彫刻、蔵の窓の装飾などに描かれている。別名を「竹生島文様」という。
 杉原さんは、1998年の「まるごと淡海」(サンライズ出版)の出版に参画し、「淡海のデザイン」(p18)で、波兎を近江発祥の独自なデザインではないかとの説を提示した。特に、波の上を走る兎が2匹で対になっている構図と、同じ方向に走る二匹の兎のうち一匹が後ろを振り返り、もう一匹を見る構図が近江独特のものではないかと考えた。
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 仮説検証の方法は、近江の波兎が近江以外の波兎とはデザインが異なることを数で示すことである。もう一つは、年代的に最も古い最初のデザインにたどり着くことだ。杉原さんは波兎を求めて湖北・湖東を歩き、全国各地に足をのばし、写真をとり、コレクションを始めた。その道のりを聞いていると、恋人を捜し求めてさすらう純愛ドラマの主人公のように思えてくる。


キュートなうさぎ達
d0087325_22243042.jpg 具体的に波兎はどこにいるのか。杉原さんは、湖東、湖北の神社や寺院、民家などの名前をあげて紹介した。彦根では、うだつの上がった民家の鬼瓦に「兎」と「龍」の文様があり「うだつ」を表現していたという。この民家は空き家となり鬼瓦は落ちてしまっている。そのほかに、醤油屋の屋根瓦や七曲がりの蔵の窓飾りなどもあった。名古屋にも奈良にも出雲にも鳥取にも波兎文様は見つけられる。杉原さんの仮説は検証がむずかしい。

 次々にうつし出される波兎文様を見ていると、さまざまな形や表情のうさぎがいる。なかでも、杉原さんは、「キュート」に跳んでいる兎が好きなようだ。何度も「キュート」という言葉を使い、両手を上に伸ばして前傾姿勢をとり跳ぶ姿を表現した。また、彦根市松原町の旅館「ふたば荘」のゆかたには、杉原さんの勧めで波兎が描かれているという。どんなキュートなゆかたなのだろう?


波兎と竹生島のふしぎな関係
 ところで、なぜ波兎を竹生島文様というのだろうか。竹生島文様だから、原点になるデザインが竹生島にあるに違いない。杉原さんによれば、1995年、サライという雑誌の取材で竹生島に波兎を探しにきた人は、ついに見つけられなかった。でも、「うさぎ目」の持ち主である杉原さんは、宝厳寺唐門に三匹の兎を見つける。そして対になっているはずだからもう一匹いるでしょうと住職に問うと、一匹は強い風で落ちたので保管していd0087325_22343946.jpgるとの答えが返ってきた。だが、唐門は秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を移築したもので、竹生島発祥とは言えない。(デザインを付け加えた可能性はある)

 通説では、謡曲「竹生島」の一節「(竹生島も見えたりや。)緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり。月海上に浮かんでは、兎も波を奔(かけ)るか。面白の浦の気色や。」から兎が波の上を駆けるデザインがうまれたとされる。これでは、竹生島という地域で生まれたという証拠にはならない。
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 そこで、大国主命が助けた「因幡の白兎」伝説が登場する。イナバの白兎がオキノ島からイナバに渡ろうとして和邇(ワニ)をならべてその背を渡ったが、最後に嘘がばれてワニに毛皮をはぎ取られ、泣いているところをケタの前まできた大国主命に助けられる話だが、びわ湖の周りには、イナバ、ケタ、ワニ、オキノシマの地名があり、近江こそが高天原であったという説がある。だからといって、イナバの白兎がモチーフになって近江で文様が生まれたといえるだろうか? 杉原さんの求めるオリジナル波兎はなかなか捕まえられない。
 もっとも、高校古文の教科書には、竹生島の老僧が湖上を闊歩し、参詣に来た延暦寺の僧を驚嘆させた話が載っている(古今著聞集545話)くらいだから、兎が波間を駆けるくらいは竹生島ではたやすかったのだろう。

まちづくりの種を創造しよう
 杉原さんは、「私の話は実生活にもまちづくりにも役にたたない」という。たしかに身近なことにこだわったマニアックな話だが、これまでにない独自の切り口が新鮮で面白い。役にたつか役にたたないかは、聞き手の問題だ。幸いにも、寺子屋力石に集う多彩な人々は大なり小なりマニアックな人達だ。

 そして、マニアを単なるマニアで終わらせないのが花しょうぶ通り商店街のまちづくり精神であることも十分学んできた。やまもとひまりさんは、「武将・島左近×ねこ=しまさこにゃん」を創造した。ゆるキャラ星には、ねこ族、いぬ族だけでなく、ねずみ族やうさぎ族などがいる。うさぎ族には、ピーターラビット、バックスバニー、不思議の国のアリスのうさぎなどの有名人も多い。「○○×うさぎ=??」という方程式を解いてみてはどうだろうか。波兎に惚れている杉原さんが喜ぶかどうかはわからないけれど・・。(by E.H.)
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次回のそれぞれの彦根物語92は、

「毛筆・硬筆 ・・・活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」

田中貴光さん(書家)

日時 平成24年6月23日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
 
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# by hikonekeikan | 2012-05-24 22:40 | 談話室「それぞれの彦根物語」

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)

特集:彦根景観シンポジウム2012
     彦根・芹橋地区のまちづくりに向けて (2)


橿原市今井町の歴史的まちなみの
               保存と再生に学ぶ



今井町町並み保存会の活動 (2)

                 今井町街並み保存会会長 若林 稔さん

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 今井町町並み保存会は、住民の理事が90名、うち活動を主に担う常任理事は23名です。

 「見る建物から、使う建物に脱皮していこう」、「自分たちが主体となってまちを起す人づくりをしよう」を基本方針として、

①尾崎家、旧米谷家の保全と「大和今井を見る食べる会」、寄席、音楽会、奉仕活動の実施、
②今井まちづくりセンター、今井・まちや館、旧米谷家の管理運営とガイド、
③「今井町並み散歩」の開催(5月第3日曜を中心に1週間、茶行列などを実施)、
d0087325_212490.jpg④フリーマーケット六斎市と重要文化財・県指定文化財内部公開の同時開催、
⑤メディアの撮影(年間20本以上)への協力と撮影マナーの徹底、
⑥建物などが景観にそぐわない場合や景観を維持するための支援の市への要望、
⑦講演会・研修会の実施、機関誌「いまいは今」(月1回)の発行、
⑧その他、今井小学校6年生の「大和今井の茶がゆ体験」の開催、留学生や海外研修生、東大、奈良女子大の学生の受け入れ

などを行っています。


今井のまちづくりは第3期へ
d0087325_2132362.jpg 第3期にあたる今後10年を展望すると、保存を基本前提にしてきた今井町は、観光ではなく「人」と「商い」で活性化をめざします。これで町が生き返り、空き家がなくなっていくのが理想です。

 「商いの里帰り」事業は、今井町並み散歩の「今井町衆市」(5月19・20日)で試行しています。地元出身商人への故郷出展の依頼、堺などとの商いの連携が狙いです。

 「今井の食文化」事業は、「茶がゆ」だけでなく江戸時代の食、中世の食を創生し、本物のおもてなしの再現を狙います。

「今井チャンネル」事業は、古老の知識・記憶を記録する番組づくり、各種イベントや来町者に参加いただく番組づくりを仕掛けています。

d0087325_2151467.jpg まちの活性化には、人づくりが最大の課題。今井町だけでは創造的人材の絶対量が足りない。そこで、地域づくり支援機構と連携して「地域プランナー・コーディネーター養成塾」の実習の場、修了生の実践の場として活用してもらうことを考えています。



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 地域づくりは地元がまずやるものであると私は信じています。強い臨場感を持てば、地域づくりの課題は見えてくる。社会を変えたければまず自分が変われ。できることを探す力、できることを実行する力、よく周りが見える力が大切で、進んで嫌われることができる人になりましょう。現状を変えるには「事あれ」主義で、機会を創り出しましょう。リーダーに年齢は関係ないと思っています。


空き家再生とNPOの役割

            NPO今井まちなみ再生ネットワーク
                        理事長 上田 琢也さん


d0087325_1635666.jpg 重伝建地区・今井町にも、老朽化した空き家が多くあり、現在も増加しています。そこで、空き家の活用を進め、町に定住する人を増やす取り組みを「今井まちなみネットワーク」では行っています。
 
 主な事業は、空き家バンクの運営、今井まちあるき(空き家紹介)実施と、空き家をプロットしたまちあるきマップと小冊子「今井町町屋暮らしのすすめ」の作成・配布です。

 昨年の空き家の問い合わせが60件以上、空き家情報バンクへのユーザー登録約60名、土地・建物の売買契約3件、賃貸契約22件が成立しています。

空き家を再生した事例には、宿泊体験施設「今井庵・楽」、長屋のサブリース事業、フレンチレストランの開業があります。

 私自身は、今井町に生まれ育った福祉施設の職員ですが、メンバーには建物取引の専門家がいます。空き家バンクは、借り手と所有者のつながりだけでなく、今井町のコミュニティとのつながり、行政やまちづくり組織などとの関係を大切にして、今井に住んでほしい人とはどんな人か、住みやすい町とはどんな町か、を常に考えています。

 空き家対策の基本は、まず所有者と十分に話し合うことです。所有者との関係を整理した後に、ボランティアで草刈りの実施、畳替え、トイレの水洗化などを行い、一つの再生サンプルを作ります。これが広告塔になって口コミで情報が広がります。もちろん、インターネットでの発信も行っています。

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今井庵・楽
 伝統町屋を再生、現代的感覚と耐震性能を盛り込んで町屋暮らしを体験したい方に貸し出す「生活体験用滞在施設」。
部屋は、茶室3畳、1階和室7畳半、2階和室7畳半。茶室、ひのき風呂、ミニキッチンを備え、冷暖房完備。
1泊2日で1名1万円、2~5名で1万5千円。




意見交換 (司会:笠原 啓史さん)

d0087325_17172468.jpg 芹橋でも、老朽化した空き家が突然売却され、潰される。所有者が大阪などにいて情報が入らない。どう対応されているのか。また、若い人は古い町に本当に住んでくれるのか。

 所有者を聞き出して、足を運んで話すのが基本だ。空き家に人が住む実例が出てくると、口コミで情報が広がり、相談が集まるようになる。不動産屋にとって古い町屋は手間がかかるうえに儲からないので、十分に動いてくれない。NPOの方が親身になってくれるといわれている。ただし、古い町屋には、一般住宅と違う課題があり、それらを盛り込んだ契約書を「大和空き家バンク」でつくり、使用している。

 最近は都会暮らしの若い人達の移住が増えている。マンション住まいで子供たちの人間関係の希薄さに不安を感じている人が多く、近所どうしのふれあいが魅力という。古い町のコミュニティこそ、次世代への大切な贈り物だと思っている。


d0087325_1718193.jpg 芹橋では、辻番所の保存運動に関わり「辻番所の会」を有志で立ち上げ、昨年、芹橋二丁目連合自治会に「まちづくり懇話会」ができた。今後、住民協議会などをつくり、まちづくりの合意を形成したいが、芹橋では、すでに多数の建物が失われて空き地になり、現代建築に建て替わっている所も多い。ここでまちづくりの合意を得るには、新しい家にも通じる防災上の協定や施設整備を共通項にしたらと思っている。
今井町では、防災に関する協定や防災広場の整備に至る住民合意は、どのようにしたか。


 今井町では、建物と町並みをそのまま保存するという基本方針で、伝建地区を選択した。都市計画決定までは、住民を二分する深い対立があり、今でも伝建地区について様々な意見がある。しかし、「伝建で保存」という合意が先にあったので、防災でもめることはなかった。


 彦根市では、花しょうぶ通りで伝建地区をめざして住民と協議を進めている。芹橋は伝建地区ではないが、住民の合意による地域協定ができれば、町並み環境整備を実施することは可能だ。

ただ防災は、まず自分たちでするのが基本。防災広場や防災小屋は、他人にしてくれという世界。そこが先走ると自分たちでしないで、行政依存になり、地域自主防災力は却って低下する。

 城下町の町割りや足軽屋敷群などの歴史的な建物を残しつつ、防災に力を入れるのは重要だ。いったん潰したら再生できない。文化も歴史も失うことになる。  (終)
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# by hikonekeikan | 2012-05-13 16:36 | フォーラム

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ

特集:彦根景観シンポジウム2012
       彦根・芹橋地区のまちづくりに向けて (1)


橿原市今井町の歴史的まちなみの
               保存と再生に学ぶ



 2012年3月20日(祝)、彦根景観フォーラム、辻番所の会、芹橋まちづくり懇話会は、11時より芹橋地区で特別公開中の足軽屋敷や路地の見学会を行った後、13時より四番町ダイニング3Fホールで彦根景観シンポジウム2012を開催しました。

 今回は、奈良県橿原市今井町から3名の講師を迎え、歴史的な資産の保存と住民のくらしの共存、まちの防災や活性化、空き家問題への対応などについて議論を深めました。2回にわたって、そのポイントをお伝えします。
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一歩踏み出そう、芹橋まちづくり

                 彦根景観フォーラム理事長 山崎 一眞 

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 芹橋は、旧彦根藩最大の足軽組屋敷地であり、歴史を感じさせる閑静な住宅地です。彦根市の中心部に位置し、買い物や生活に便利だが、路地がせまく車の利用には適していません。中心市街地の例にもれず人口減少・高齢化が著しく、1977年の1,234人が2008年には700人に、高齢化率は彦根市の18.7%に比べ芹橋は36.4%となっています。
 足軽屋敷の数は、1966年の158件が2007年には30件に激減。町並みは、空き家や空き地、青空駐車場が増え、周囲の町なみとは場違いな建物も増えて、歴史的な景観が損なわれています。

 足軽屋敷を保存し、歴史的町並みと路地を再生しつつ、安全で若者も喜んで住む町にできないか。前回の彦根景観シンポジウムでは、次のような町づくりの方向が明らかになりました。d0087325_1528357.jpg 

 ①芹橋の町並みは、路地を挟んで塀があり、少し後に建物がたち、間に庭があって緑が見える建て方でつくられている。この歴史的な建築ルールを守る住民協定が必要。

 ②4m未満の路地の維持は、都市計画法第42条の3項道路の適用で実現が可能。

 ③住民による自主防災の仕組みづくりが前提。

 この建築ルール/路地の維持/防災の仕組みをセットで合意できれば、少子高齢化、脱クルマ時代のまちづくりのモデルになると評価されました。
 シンポジウムを受けて芹橋で防災図上訓練を実施したところ、今の準備状況では震度7の地震に対処できないことがわかり、対応策を模索しました。

 芹橋の歴史的な建物と町なみの再生、防災性の向上をどう進めるか? 今日は、先進地の橿原市今井町のハード、ソフトの経験をお聞きして、住民、行政、NPOの皆さんと議論したいと思います。


今井町伝建地区の制度と事業

                 今井町並保存整備事務所長 田原 勝則さん

d0087325_11435897.jpg 行政の立場から、ハード整備を中心にお話しします。

 今井町の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)は、東西600m、南北310m、面積17.4haで、ここに重要文化財が9件(寺社1、民家8)、県指定文化財2件、市指定文化財5件、伝統的建造物504件があります。芹橋より少し広いくらいの通りがあり、昭和30年代から10回以上、建物や町並みの本格的調査が行われています。

 今井町のまちづくりの理念は、文化財としての歴史的町並みと住民生活の共存により、活気のあるまちをつくり、街並みを未来に残していくことです。

d0087325_15402325.jpg 伝統的建造物群保存地区(伝建)制度は、市からの申出により選定され、建物の修理、修景等の経費の一部が国から補助されます。この指定を受けるため、橿原市は伝建地区保存条例(H1.9.27)を制定し、保存計画の策定、現状変更行為の制限と許可基準、経費補助、伝建地区保存審議会設置を定めました。
 ところが、住民の意見が二つに分かれ、都市計画決定(H5,3)までに5年かかりました。この時、住民意見を調整するために市が「今井町町並み保存住民審議会」を設置しました。地区の各組織・団体の代表、学識経験者で構成し、保存計画、現状変更行為、許可関連、整備事業を審議し、市および伝建地区保存審議会に建議します。

d0087325_15375043.jpg 建物の保存・修理については、伝統的建造物の外観を保存する修理・復旧で4/5、非伝統的建造物では外観を伝統的建造物と調和するような修景で1/2、2/3、新築の場合1/3が補助されます。22年度末までで262件、総事業費47億円のうち11億円を補助しています。このほか、伝建地区における建築基準法の制限を緩和するとともに、家屋、土地の固定資産税を軽減しています。

d0087325_15385258.jpg 住環境整備事業(町なみ環境整備事業)は、住環境としての道路が狭い、公園・緑地が少ない問題に対処して、歴史的資産の保存と住環境の改善の両立を図るもので、①道路の美装化、②電線等の地中化 ③旧環濠の整備(復元)、④公園・生活広場・防災施設(防火水槽、防災倉庫、便所を併設した休憩施設)の整備、⑤今井景観支援センター(町屋を改修し東側を見学拠点、西側を事務所に活用)、今井まちづくりセンター(地区住民の交流の場、体験型見学施設)の整備、d0087325_1546887.jpg⑥伝統的建造物以外の建物の修景、屋外設置物、生垣の整備、⑦照明などのストリートファニチャーの整備を行っています。
 総事業費 29億円で、H22年度末で24億円の進捗です。最近、交通広場予定地から昔の環濠が発掘され、復元すべく調整しています。

 これらの公園や防災施設、センターを管理し活用していただいているのが、地域防災会や「今井町並み保存会」、「NPO今井まちなみ再生ネットワーク」、「今井町区域街並み環境整備協議会(大工さん達の勉強会)」で、活発に活動いただいています。


今井町町並み保存会の活動

               今井町街並み保存会会長 若林 稔さん

d0087325_1144336.jpg 最初にお断りしますが、私の意見が今井町の住民の意見とはいえません。まちづくりには様々な意見があり、一本化はできません。私という人間が会長に推されていると考えてください。私は、今井町に生まれ、近畿日本鉄道(株)で広報や都市計画、美術館の仕事を担当、平成8年から街並み保存に関わり、今井宗久を提唱。14年から茶行列等のイベントを企画して本格的に参加した人間です。

 今井のまちづくり第1期は「町並み保存のパイオニア」の時代です。昭和30年代から少数の住民リーダーが町並み保存運動を引っ張り、昭和49年、今井、妻籠、有松で「街並み保存連盟」を結成、昭和53年には町を保存してほしいという陳情から始まり「今井町保存問題に関する総合調査対策協議会」(住民協議会)を作り、昭和63年「今井町街並み保存会」に名称を変更、伝建地区保存条例の制定に結び付けました。その道は住民がもがき苦しんできた汗と涙の成果であり、決して恵まれていたわけではありませんでした。

d0087325_15425190.jpg その後、行政によるハード面での保存が軌道に乗りだすと現在までの第2期が始まります。住民が行政に陳情する受け身の立場から能動的な動きに変わり、イベントの導入と拡大、海外や子供たちへの啓もうと日本文化継承への広がりをめざしています。 (次回につづく)
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# by hikonekeikan | 2012-05-13 10:58 | フォーラム

多賀への道、たけのこごはん、5月の森 多賀里の駅

2012年5月5日 多賀里の駅・一圓屋敷の集い

  近江の道 多賀への道

      愛荘町立歴史文化博物館顧問 門脇 正人さん

d0087325_10233064.jpg 滋賀県で最も集客力のある観光地は「黒壁」(長浜市)だ。平成22年度は約180万人の観光客が訪れた。では、第2位はどこか? 実は、多賀大社で約166万人である。彦根城の約73万人の2倍以上もある。その集客数を生かせているかどうかはさておき、昔から多賀大社は多くの人々を引き寄せてきた。その人達は、どんな道を通って多賀に来たのだろうか。
 今月の多賀里の駅・一圓屋敷の集いは、ふるさとの道の研究家 門脇 正人さんが、多賀につながる「多賀道」をテーマに、身近なふるさとの道の歴史を、残された道標と古地図をもとに解明していく物語を語られた。


数学の先生、街道をゆく
 門脇さんは、長年、彦根東高校で数学の先生をされていて、この日の参加者にも教え子が多く、お話が始まる前や後で旧交を温めておられた。でも、どうして、高校の数学の先生が「道の歴史」を調べて、歴史文化博物館の顧問にまでなられたのだろうか。

 きっかけは、門脇先生(とよばせていただく)が彦根東高校新聞部の顧問をされていたとき、江戸時代に朝鮮通信使がたどった道「朝鮮人街道」を歩いて、消えた道を探るルポの企画があり、その成果が高校新聞の賞を受賞して話題をよび、ついには「朝鮮人街道をゆく-彦根東高校新聞部による消えた道探し-」(サンライズ出版1996年)という著書に結実したことだ。

 このとき、朝鮮人街道を踏査していて、現在のJR能登川駅付近で地元の人の伝承や通説が誤りではないかと思われる個所を発見する。そして、地域に残る江戸期の村の古地図を見出し、伝承や通説の道が明治期に鉄道が開通した際に新しく作られた道であり、本来の道は別にあることを提示した。この体験で「歴史の道」、「ふるさとの道」という視点が定まった。門脇先生の手法は、道にのこる道標や丁石を調べ、地域にのこる古地図を発見して道の変遷を探るというものだ。


多賀への道
d0087325_10275798.jpg 滋賀は、かつては「近江」と呼ばれたが、今も昔も「みちの国」である。門脇先生は、古代には東海道、東山道、北陸道が、近世には、東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北国街道、北国脇往還、御代参街道、八風街道などが整備されたことを説明された後、「多賀への道」について詳しく語られた。

 代表格は、御代参街道である。これは、朝廷が京都から伊勢神宮へ参詣し、さらに多賀大社へ参詣する際に、名代(代参)を派遣したことから「御代参街道」と呼ばれるようになった。東海道の土山宿から、石原・岡本、八日市、中山道の愛知川宿にいたる東海道と中山道のバイパスであり、街道には、伊勢、多賀、北国を示す道標が多い。記録によれば、寛永7年(1640年)、春日局が上洛の途中に伊勢から多賀へ参詣したときに通行し、延宝6年(1678年)には遊行上人(神奈川県藤沢)が通行している。

 門脇先生の発見は、愛知川宿から八日市へ向かう御代参街道には、小畑、三又・新堂、愛知川の3つの道があったことを道標や江戸期の地権図からつきとめたことにある。



多賀道をいく

 さらに、中山道から多賀に至る「多賀道」には、高宮宿にある多賀大社一の鳥居から多賀に向かう高宮道(多賀本道)、彦根の大堀・岩清水神社前からの大堀道、現在の国道306号線と中山道の交点にある原からの原道の3つがある。この他に、湖東地域からは八千代橋-御河辺橋-春日橋を通る道、岐阜・三重からは五僧越え、鞍掛越えの峠道があり、この間に多賀を示す道標は80本を超えるという。

 当然ながら、歴史的な道の確定には困難が伴う。道は、今も昔も政治や経済の都合により移動する。明治期に陸軍測量部が作成した地図にも限界があり、古い道の発見には、道標や丁石と古地図が手掛かりになる。ところが、移動する道標、捨てられる道標、失われる地域の古地図が多く、それらの保存に向けて愛荘町歴史文化博物館が取り組む事業も紹介された。
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道標を建てたのは?
 道標は誰が、何のために作ったのか。門脇先生によると、幕府や朝廷が作ることは考えられない。道標を作るには相当なお金がかかるので、地域の金持ちが作ったと考えられるが、ほとんどが製作年や製作者を入れていないのでよくわからない。ただ、多賀大社などの神社関係では、個人の信者か伊勢講、多賀講の信者などが立てていることが多いという。

 門脇先生が紹介された道標には、常夜灯型から角柱型、川原の自然石に刻んだだけの簡素なものまで様々な種類があったが、地蔵後背型の道標は、滋賀県でも特定地域に集中している珍しいものだという。このような道標を建てたのはどういう人物で、どんな思いをもっていたのだろうか。
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伊勢と多賀のつながり
 実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。しかし、門脇先生のお話しにより、伊勢と多賀のつながりが見えた。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」

と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
 そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。


試食会は、たけのこ料理
 あれこれ妄想している間に、「たけのこごはん」が出された。うっかりそれぞれの料理名を聞き逃したが、シンプルで薄味ながら、たけのこの強い香りがする炊き込みごはんが主役だった。これは、いくらでも食べられるなぁ・・。
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5月の野鳥の森の花々
 集いに先立ち、野鳥の森を彩る自然の植物を観察する会が9時から開催された。
中川信子さんの案内で、5月の若い植物を見て歩いた。おもしろかったのは、非常にありふれたカラスノエンドウ(茎が太くて立派、淡い紅色の花)に、スズメノエンドウ(茎が細くて弱弱しい、白紫色の花)も混じっており、さらに、カラスとスズメの間の大きさの草の意味のカ・ス・マ・グサも混生しているという発見だった。
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 また、オドリコソウの花の白、ミツバアケビの花の深い紅に魅了された。クサイチゴの花から赤いジューシーな実を想像しつつ、5月の森のすがすがしさに「こんな朝が生きる喜びを感じさせてくれるんだ」と、そっとつぶやいてみた。
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次回の多賀里の駅・一圓屋敷の集い、試食会  
    6月2日(土) 9:00~12:00 一圓屋敷 参加料500円 
    第44回 「みんなで歩こう野鳥の森」 中川信子さん(自然観察指導員)
    9:00~ 多賀「里の駅」・一圓屋敷で各自おにぎりをにぎってお弁当を準備します。
         いろんな具でオリジナルおにぎりを作りましょう。
    10:00 初夏の植物を観察しながら、野鳥の森の散策路(約4km)を歩きます。

     自然の中で深呼吸!楽しい発見を一杯しましょう。
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# by hikonekeikan | 2012-05-13 10:50 | 多賀里の駅・一圓屋敷

談話室「それぞれの彦根物語」2012.4.21

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# by hikonekeikan | 2012-05-10 17:11 | 談話室「それぞれの彦根物語」