NPO法人 彦根景観フォーラム

『ギャラリー&カフェ・寺子屋』がオープン

ひこね街の駅 寺子屋力石の再興プロジェクト・第1弾

『ギャラリー&カフェ・寺子屋』がオープン


d0087325_11164920.jpg 2011年1月2日の火災で半焼したひこね街の駅・寺子屋力石(彦根市河原二丁目)。 彦根景観フォーラムや花しょうぶ通り商店街などで組織する実行委員会は、再興のために募金活動を行い建物を補修してきました。
 その寺子屋力石で、4月1日、「ギャラリー&カフェ・寺子屋」が開店し、オープニングセレモニーが開かれました。寺子屋力石から生まれた「しまさこにゃん」も、みごとな字で奉加帳に記入しました。

 寺子屋の一階約百平方メートルでコーヒーや抹茶などが楽しめるほか、四月中旬からランチも提供されています。
 また、店内はギャラリーとしても活用され、ゆったりとくつろぎながら作品を鑑賞することができます。オープンを記念して、4月7日まで、世界的に活躍する柿渋手描き染の染色家山本玄匠さん(高島市安曇川町)の帆布を染めた色鮮やかな作品七点が展示されました。
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 店主の川添悦子さんは、「絵画や造形作品などの作家らにスペースを提供し、若手の作家がここから育っていけるようなギャラリーにしたい。そしてこの寺子屋を次世代につなげていきたい」と抱負を語られています。   

「ギャラリー&カフェ 寺子屋」
営業時間 11時-5時、定休日 火、金
ランチは、川添さん自慢の野菜たっぷりハンバーグランチ(コーヒーまたは抹茶付き)1日10食限定です。
さっそく、いただいてきました。おいしい!ヘルシー!器がとってもきれい!058.gif058.gif058.gif
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# by hikonekeikan | 2012-05-06 11:29 | お知らせ&NEWS

日本酒の魅力&春の野草ごはん 多賀里の駅・一圓屋敷

日本酒の魅力再発見&春の香り・野草ごはん

多賀里の駅・一圓屋敷の「およばれ」

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 毎月第1土曜日は、多賀里の駅・一圓屋敷の集いと試食会。
 午前9時からは、多賀野鳥の森での植物観察会があり、そのあと、名家「一圓屋敷」で、多賀の楽しいお話と多賀クラブの女性たちが作る地元の食材を使った料理を楽しめます。(500円)

サプリより日本酒?
 さて、4月7日は、多賀の蔵元、多賀株式会社社長 福元 修さんが、「日本酒の魅力を再発見しましょう 」というお話しをされました。日本人の叡智が凝縮された日本酒は『日本人の心と美容と体』に一番合うお酒であることを、米麹を使う製造法や成分などから説明されました。
 日本酒には他のお酒よりアミノ酸がバランスよく含まれていて、「アミノ酸、とるならサプリより日本酒」だそうです。また、日本酒の隣に、おいしい水を用意しておいて、ときどき「和らぎ水」を飲むとよいそうで、スローでヘルシーな新しい飲み方を提案され、多賀(株)の新しいお酒も紹介されました。

春の香り・野草ごはん」
 お昼の試食会は、春の香り・野草ごはん。
一の皿は、セリの白和え、ノビルからし味噌かけ、梅の花添え 、
二の皿は、やぶつばきの花、にわとこ、ゆきのした、よもぎの四種天ぷら、
そして、「秋の詩」ごはん、みつばのお澄まし、
回し皿は、のかんぞうのお浸し。
 古民家で大勢が食べる「田舎のおよばれ」の楽しさを満喫しました。
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多賀の「およばれ」
 たしかに、昔の田舎では、あるものに手間をかけて工夫したので、野菜料理が中心でした。ところが、今は人手がかかる料理が作れなくなり、親戚で料理屋に行って定番の料理を食べることがほとんどです。やむを得ないのですが、料理の違いは明らか。
 この「春の香り・野草ごはん」は身体が軽くなる気がします。

 ところで、この集い、正式な名前がついていないのです。
もし、許されるなら「多賀のおよばれ」と呼んだらどうでしょう。
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# by hikonekeikan | 2012-05-06 10:26 | 多賀里の駅・一圓屋敷

よみがえれ!辻番所・足軽屋敷

よみがえれ! 辻番所・足軽屋敷

                                  足軽辻番所サロン・芹橋生活27
 

d0087325_10164615.jpg 2012年2月19日(日)午前十時より芹橋二丁目足軽屋敷太田邸で開催されたサロンでは、「旧彦根藩足軽組辻番所および組屋敷(辻番所、旧磯島家住宅)の保存修理工事の概要」について、彦根市教育委員会文化財課の深谷覚さんがお話をされました。

 足軽組辻番所・旧磯島家住宅は、辻番所を併置した足軽屋敷で、日本で唯一の現存例とみられます。
 平成20年、取り壊しの危機にあった建物を守るため、彦根景観フォーラムはトラスト運動を市民に提案し、集まった寄付金を彦根市に寄付しました。その後、市によって買収され、平成21年2月彦根市指定文化財となりました。現在、この建物の機能を回復させ足軽の生活様式を伝える文化財としての保存を図るとともに、住民の皆さんが活用できるように保存修理工事が進められています。
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 深谷さんは、芹橋の位置や関係する都市計画の法令、足軽組屋敷の特徴、組屋敷の建物の構造や配置等について解説され、その後、建物の解体と発掘調査の状況を写真で詳しく説明されました。
 そして、新たにわかってきたこととして5点を挙げられました。
1.旧磯島家は、江戸期以後、ほぼ2回の増築・改変がされている。
2.辻番所と旧磯島家は、現在はつながっているが、建築当初は別棟であった。
3.旧磯島家の外壁は、中塗りで仕上げられ、内部のトオリニワ壁面は荒壁で仕上げられていた。
4.旧磯島家のナンドの押入れ部分は増築されたもので、当初は開口部が設けられていた。
5.旧磯島家のカマドの位置も増築にあわせて位置が変わった。

今後は、後世の改変部分を復旧し、耐震補強を施して往時の姿に再建される予定です。
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# by hikonekeikan | 2012-05-06 10:22 | 辻番所・足軽屋敷

それぞれの彦根物語 ゆるキャラは妄想が命

それぞれの彦根物語90

 「笑顔のもと」「元気のタネ」
     ~街の駅での素敵な出会いから~


やまもと ひまり さん (「しまさこにゃん」たちの母、ラジオパーソナリティ)

             2012年4月21日 (土) 10:30~12:00  ひこね街の駅「寺子屋力石」

d0087325_21133750.jpg 彦根は、ゆるキャラ天国、ゆるキャラの聖地だ。「ひこにゃん」は、ゆるキャラ人気No.1といわれ、2008年以降毎年10月には「ゆるキャラまつり」が開催されて、全国から200を超えるキャラ達が参加、多くの人出でにぎわう。
 今回の彦根物語は、「しまさこにゃん」などの彦根独自のゆるキャラを生みだしている やまもと ひまり さんが、ゆるキャラたちの誕生物語を披露した。ゆるキャラにとって大切なのは、生みの親より育ての親、応援する人々の大事に育てるという思いがないと、ゆるキャラは広がらないという独自の見解に、目が開かれる思いがした。


ゆる人間・ひまりさん?
 やまもとひまりさんの肩書は、「しまさこにゃん」の母、ラジオパーソナリティ・びわ湖放送彦根支社勤務だが、本当はもっと幅広い。彦根市内の小学校で、国語の社会人講師として本の朗読をしている。さらに、演劇の俳優、脚本作家でもある。彦根で大活躍しているので市内在住と思われているが、大津市在住だ。楽しい方向にアンテナを向けて、笑顔のもと、元気のタネである「ゆるキャラ」を生みだす。 彼女自身の魅力的な生き方が「ゆるキャラ」に結実している。


しまさこにゃん誕生物語
 ひまりさんが、ゆるキャラの母として新しい人生を踏み出すきっかけになったのが、寺子屋力石と、そこに集う人々との出会いだった。

 国宝彦根城築城400年祭の前年に当たる2006年、エフエム彦根のラジオパーソナリティをしていたひまりさんは、おもしろい人たちが集まる「街の駅・寺子屋力石」を取材した。当時行われていた手作り甲冑教室の取材の後、京都の町屋とは違う江戸っぽい力石の雰囲気が珍しく、二階にあった提灯などをみせてもらった。そして、一階の中央にあった400年祭応援メッセージボードに、「400年祭をド~ンと盛り上げよう!」というメッセージをイラストとともに走り書きした。好きだった司馬遼太郎の小説「関ヶ原」に登場する島左近を猫にした、目つきの鋭い兜をかぶった一匹のしま猫「しましま柄のしまさこにゃん」だ。
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 この小さなイラストに注目した人がいた。当時、「彦根左近の会」を主宰し、甲冑教室で島左近の甲冑をつくっていた熱烈な島左近ファンの小杉さんだ。「左近が好き」つながりで、話が盛り上がり、花しょうぶ通りのお茶の店の店主、通称「お茶の店博士」(御茶ノ水博士のパロディ)が、立体の着ぐるみにしてくれた。

 こうして、さこにゃんが誕生すると、まちおこしを企画していたLLPひこね街の駅のメンバーによって独自のプロフィールが与えられた。さこにゃんは、400年前から城下町の七曲がり仏壇街の古い蔵にひそかに暮らしていた。性格は、粗野で無骨、普段は飄々としているが切れ者であり、心根は優しく、義理と人情に命を懸ける。好物は日本酒。特技は奇襲戦法や待ち伏せ作戦。司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでは密かに泣き、佐和山で再び主君の石田光成と花見酒を酌み交わす夢を見る。

 酒好きということで、最初の商品はワンカップのお酒のラベルになった。そして、400年祭の公式キャラクター「ひこにゃん」の白くて丸くてかわいいイメージに対して、灰色のシマシマ、酒好きで戦いに生きる武将のイメージは、「ひこにゃん」に物足りない歴史ファンや歴女、熱烈な戦国ゲームファンを惹きつけた。

 ひまりさんによると、花しょうぶ商店街は「ゆるゆる」商店街であるが、そこに集まる人たちは「濃~い、濃~い」人たちで、しまさこにゃんは「ど・ストライク」でその人々の心にはまったのだった。LLPひこね街の駅は、このキャラクターを商標登録し、コンテンツ・ビジネスを展開、戦國丸の開店につながっている。


いしだみつにゃんの誕生
 佐和山で主君と再会を果たし、桜を愛でながら酒を酌み交わすことを夢見る猫というストーリーを与えられた「さこにゃん」は、2007年9月の佐和山一夜城プロジェクトで初めて佐和山に登った。そして、佐和山主従の再会の実現のため、石田光成のゆるキャラ「いしだみつにゃん」が誕生した。

d0087325_21364928.jpgd0087325_21374172.jpg 手には扇子を持ち、陣羽織には石田三成の旗印「大一大万大吉」をあしらっている。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」しあわせな世の中をつくるという大義だ。性格は、自意識過剰で普段はツンツンしているが、本当はさびしがりや。好物はお茶(日本一の茶名人)。苦手は柿(丹の毒)。人を差配するのが得意なのに、「義」に生きる不器用な生き方で誤解を招く。筆を持ったら並ぶものなし。神経質で、すぐお腹をこわす。夢は、もう一度佐和山で「島左近」ら家臣と花見茶会(酒ではない)を開くこと。

 2007年11月23日、400年祭の最終イベントでは、さこにゃんが彦根城黒門に、みつにゃんは表門に配置された。そして、2008年4月、ついに桜の佐和山で主従の再会劇が多くの家臣団とともに開催された。さこにゃん、みつにゃん、大谷にゃんぶには、家臣団という熱烈な支援グループができていて、家臣団の中から戦國丸で結婚式をあげたカップルも生まれた。


キャラさん大集合
 ひまりさんの子供達を挙げてみる。
 しまさこにゃん、いしだみつにゃんに続いて、しまにゃんきち(小杉氏の依頼)、やちにゃん(彦根らぼらとりぃ社)、いいにゃん弼(どんつき瓦版、HIKONEキレイキャンペーン隊)、ひごにゃん・さにゃだゆきむら(彦根らぼらとりぃ社)、やかたん(NPO法人小江戸彦根)、ひこっち(エフエムひこねコミュニティ放送)、彦鬼(げんき)くん・美鬼(みき)ちゃん(彦根城オニバスプロジェクト)、けやっきー(積水ハウス「コモンステージ彦根東」)、ひこどん(彦根鉄砲隊)、らんまる君・ぼうまる君・りきまる君(安土町観光協会)、ひらつかためにゃん(大谷吉継家臣平塚為広ファンの依頼)、ハートちゃん(犬上ハートフルセンター)と、次々にゆるキャラが生まれている。そして、そのいずれもが頼んだ人の思いと物語を形にしていることが実感できた。
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ゆるキャラは、妄想が命
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 ひまりさんは、ゆるキャライベントの司会も担当する。すると、キャラの性格や好き嫌い、生い立ちなどがたくさん書きこんである紹介文と、ある町の活性化のために誰がいつ製作した何歳の女の子といった表面的なことしか書いていない文がある。 

 ゆるキャラは、着ぐるみになっても喋らない、動くだけのキャラで、平面だと動きもない。アイ・コンタクトだけで相手とコミュニケーションをとるのが宿命だ(大きな目はこのためにある)。しかし、同時に魅力的なプロフィールが与えられていると、好きなものが同じなら共感できるし、嫌いなものはどう克服していくかでストーリーが生まれる。ゆるキャラが愛され共感されるには、妄想が大切なのだ。

 ひまりさんは同じことを演劇で経験している。舞台稽古の最中に、演じている主人公のプロフィールを監督から聞かれる。主人公の経歴、過去の人生経験、家庭や職場の環境、相手との人間関係を突然、聞かれる。そうした人物像が自分の中で明確になっていないといい演技ができないのだ。

 「しまさこにゃん」などの人物キャラは、歴史上の実在の人物がストーリーになる。そのことによって性格や運命が与えられ、人物像に深さがにじみ出てくる。ローカル・キャラは、地域の特徴や地域にかける思いの深さがストーリーとともに説明されて、初めて共感される。
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 ゆるキャラにとっては、生みの親より育ての親、使ってくれる里親の方が大切な存在であり、大事に育てていこうという思いがないと共感は広がらない。戦国丸に集う家臣団は、いわば育ての親。キャラは人に見られ、応援されて育つ。
 フォロアーがリーダーを育てるという考えは、花しょうぶ商店街の人たちが常に強調する町づくり、人づくりの基本でもある。


つながる妄想? 
 「キャラは、笑顔のもと、元気のタネ、楽しい方にアンテナを向けて、みんなの笑顔を増やしていきたい。」 そう話す彼女を応援する人は多い。クラウンブレッド平和堂の馬場さんからは、巨大なカステラパンの差し入れがあった。そして、はるばる千葉から(柳生)獣兵衛さんも会いにきた。
 この日は花曇りで、彦根城周辺の桜が満開を過ぎ一斉に散りだした。帰り道の桜吹雪の中で、しまさこにゃんが夢見た佐和山で酌み交わす花見酒とはこんなものだろうかと思い、自分の妄想に思わず笑ってしまった。(By E.H)



次回の「それぞれの彦根物語91」は、
平成24年5月19日(土) 10:30~12:00

「鐘馗(しょうき)さんにはかなわぬ、波兎(なみうさぎ)」
 杉原 正樹 さん(DADAジャーナル編集人)

 民家の屋根に厄払いの願いを込めておかれる鐘馗(しょうき)さん。そのほかに、家屋や蔵、お寺には、波と兎を描いたキュートな文様があり、これは「竹生島文様」とよばれる。彦根に存在する竹生島文様を中心に、湖東湖北の波兎を紹介しながら、近江発祥の妄想を語る。
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# by hikonekeikan | 2012-05-04 22:21 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.2.18

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# by hikonekeikan | 2012-03-02 10:36 | 談話室「それぞれの彦根物語」

辻番所の新しい見方 足軽辻番所サロン・芹橋生活26

 足軽辻番所サロン・芹橋生活26
 12月18日(日)10:00~11:30 太田邸


 「足軽組の組織と掟」
  -善利橋12丁目鉄砲40人組の事例から-


  母利 美和  (彦根景観フォーラム理事・京都女子大学教授)

d0087325_2143193.jpg 市民トラスト運動によって解体をまぬがれ、現在は彦根市によって解体修理中の芹橋12丁目の辻番所。江戸時代にその辻番所を有していた善利橋12丁目の鉄砲40人組のルールブック「御組(おんくみ)歴代(れきだい)規矩(きく)留帳(とめちょう)」が母利先生によって解明され、当時の足軽組の組織と運営の枠組みが明らかになった。

善利橋12丁目鉄砲40人組とは
 発祥は、天正18年(1590年)上野国で海老江庄右衛門を物頭に鉄砲20人組として成立し、慶長9年(1604年)以後、彦根城下町の整備に伴い善利橋12丁目に移転、元和元年(1615年)足軽20人を加増されて40人組となり、明治まで続いた。
 12丁目の通りに面して全員が住んだとの説もあったが、近年、12丁目の北側の一部を除いた36戸と11丁目西側の6戸を加えた42戸であったことが判明した。組内に矢場(鉄砲の射撃場)と辻番所を設け、射撃の流儀は「田布施流」を代々継承していた。
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足軽組の組織
 足軽組を率いる「物頭」は、足軽より身分が上位で、別の場所に居住した。足軽組には、藩からの下級役人である「手代」2名が配属され、組に居住して物頭の代理を務めた。したがって、足軽組は40人の足軽と2名の手代で構成された。
 また、足軽は10人で「小屋」という組をつくり、各組に2人の「小屋頭」をおき、計8名の小屋頭の中から1人が「年番小屋頭」となった。さらに、「世話番」が小屋ごとに2名指名され、年番小屋頭のもとで運営の実務を担った。年番小屋頭は足軽間の負担の均等化や矢場・辻番所の運営、小修繕、相互扶助などの実施責任者であり、自治組織を統括した。同時に会計責任者でもあり、世話番から2名を「帳元」に指名し、会計実務を行わせた。
 こうした組織と運営ルールの枠組みの中で、42人の足軽と手代、その家族、武家使用人が、個々の生活を営み、それぞれの思いを持ちながら人生を生きていた。

物頭と手代の役割
d0087325_21555224.jpg 今日の日本では、企業や団体などの職業組織と地域社会のコミュニティ組織がほぼ完全に分離している。しかし、農村という言葉が象徴しているように「農業」という職業と地域は一致している時代が長かった。江戸時代の彦根藩では、兵農分離が徹底し、兵は都市内で身分別に居住地が区別されていた。足軽は藩の軍事組織の末端であった。

 物頭-手代-小屋頭という組織と運営ルールは、この職業組織の一部とみることができる。この組の歴代物頭は、初代から236年間で23人が交替している。激戦を経てきた初代物頭が42年、二代目も30年近くその地位にあったが、平和な時代になると一部の例外を除いて長くて10年ぐらい、短いと1、2年で交替している。実は、これでも交替は少なく、他の組では同期間に60名くらいの交替があった。

 手代は、江戸詰の交替・継合の願書、跡目相続、跡養子、妻縁組、隠居、改姓の願書、休暇願、庭方・普請方などへの下役勤務願、不始末による身分伺いなどが足軽から手代宛てに提出されると受理し、物頭に報告した。また、新参の足軽が物頭の所に出向く新参見分に付き添うとともに、養子相続で足軽となったものは手代自身が見分した。正月12日の矢場開きでは、射撃競技「御帳前打(おちょうまえうち)」で「中附」(あたりつけ:命中率を記録する役割)を行うほか、鉄砲や道具の管理もしたが、自身は鉄砲を持たない完全な文官であった。

 小屋頭は、足軽組の「御備」に設けられた10人の組合小屋の頭と位置づけられ、御上から「組の行状諸事取締」が役目とされていた。そして、組の惣代として物頭の屋敷にお礼や応答のため伺うこととされていた。


年番小屋頭と世話番の役割
 コミュニティ組織の色彩が強いのが、年番小屋頭-世話番である。その特徴は、自治組織を統括する年番小屋頭(年番)が1年ごとに交代する点である。

 年番が1年単位で引き継ぐ帳面には、諸渡り方定帳(江戸詰、京都使、多賀大社警備などの手当てを渡すための実績帳)、月々御扶持定帳(毎月の扶持の台帳)、元入帳・同年中払帳(組への収入と支出の出納帳)、諸虎口帳(他国への護衛等の当番と実績の記載帳)、組済祝儀銀帳(新入、結婚、番上がりの際の祝金の収入帳)、大講定帳・元払帳、連判借り諸帳面(建物修理費などの返済金の年賦帳)などがあり、さらに、矢場や辻番所の道具類も預かった。 
 組の会計には監査制度があり、正月11日に年番の家で小屋頭全員が揃って、平足軽から選ばれた中年衆と小屋頭下3人に元帳・払帳を見せて1年分の勘定を確認し、次の年番に送るようルール化されていた。

 世話番は、年番に相談のうえで買い物をし、年番から金銭を受け取って支払い、それを年番が勘定帳に記載した。勘定は月締めで、翌月1日に年番のところに世話番が寄合い、本帳へ収支を書き写し、残り銭を翌月送りとした。宝暦頃からは、帳元が年番から元帳・払帳を預かる方式になり、必要により年番から金を受け取り支出し記録した。

足軽組自治組織による運営
 年番が引き継ぐ帳面の中に、「諸虎口帳」がある。平和な時代、足軽は、江戸詰、辻番、火消当番、護衛、領内の米見、舟への同乗、土木工事、建築工事への動員などの様々な役儀を勤めた。「虎口」とは、順序を定めた名簿に役儀を勤めた場合●の星を付けたものを指し、用務ごとに「虎口」が作られ、組全体にかかる「虎口」は年番小屋頭が管理した。これは、輪番制による足軽の負担の均等化が狙いとみられる。
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 組単位で支給される支給米を分配する場合も、虎口による当番制で勤めた。御切米は小屋ごとの虎口による切米番が、月々御扶持方は手代、普請方引人を含む42人の虎口によった。また、矢場、辻番所に土地を提供した足軽が広さに応じて年貢を受け取ること(矢場年貢、辻番年貢)もルール化された。さらに、米の換金を共同で行う売米は、1俵につき俵銭3文を世話人に渡すことと定められていた。

相互扶助と共同意識
 御組歴代規矩留帳には、足軽が病死したり仕置で隠居の場合、家族に月1斗5升の情扶持方を42人が援助する、世帯を持つ足軽夫婦が病死の場合、香典は1貫文とするなど、相互に扶助することを規定していた。また、「大講」の方法も規定していた。「大講」は、42人全員が講員となって一定の積立を行い講員またはそれ以外にも貸付と返済を行う金融扶助制度で、その益金は組の共同借金の返済などにも充てられた。

 これらの規矩は、誰がいつ作ったのかが不明で、古来からの継承と表現され、問題が生じれば「一統で相談の上」決めるとして、自治による決まりであることを強調している。さらに、今は新参者でもいずれ小屋頭になるので、組全員がルールを守り、組を存続させていくことが重要であると記載している。

 相互扶助の制度は今日の自治会では廃れたが、年番制度は、自治会でも寺や神社の運営組織に伝わっている。その主眼は、地域共同体の維持であり、そのために構成員の負担の均等化と全員一致が重視される。民主的で平等な半面、短期間で責任者が交替するため変化に対応しにくいというコミュニティ組織共通の側面がある。

辻番所の新しい見方
 御組歴代規矩留帳では、辻番所は「御普請出人衆の番所」とされ、仕来を聞き合わせ勤めることとされている。土木工事等への動員と思われるが、動員は2人と定めており、もし辻番の時に3日連続で動員されれば、別に1人応援をだすとしている。また、火事や出水の時は小屋頭の4人が辻番所に残って警戒し、他の4人が鉄砲組全体を率いて消化や水防に出動すると決められていた。 
 辻番所に備える道具は、寄棒2本・薬研2舟・石臼・皿桶・石持棒・大綱1・紐綱1・虎皮(こひ)1さき、夏は蚊帳1張、提灯1張などとされ、辻番所での細工は敷物を持参すること、畳の上でしてはいけないと決められていた。
 
 辻番所は、これまで城下町に侵入する不審者の見張り場と思っていたが、これは職業組織の視点からみた役割であり、自治組織の運営という新しい視点からみると、自身番夜回りの順番を辻番所に張り出したりして、さまざまな組の行事や運営が行われた中継点・事務所とみることが可能なように思われた。
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歴史に学ぶ防災リスクへの対応
 もう一つの注目点は、大火事の後、彦根藩が苦しい財政状況の中でも足軽屋敷の板屋根を瓦屋根に変えた歴史的事実だ。これは、現在でも同じ教訓が通用する。つまり、彦根藩は、通路を広げたり、建物を間引いたりして類焼を防ぐのではなく、建物の耐火性能を向上させることで火災に対応した。

 歴史的な路地の狭さは、震災時には塀や建物が倒壊し避難路や救助路が塞がれる危険が高いが、建物の耐震性を向上させることでその危険は減らせるし、人命保護等を考えればまず第1に建物の耐震性・耐火性向上が優先されなければならない。そのうえで、背割水路道の活用などを組み合わせれば歴史的路地をまもりつつ防災対策も実現できるのではないだろうか。(by E.H)
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# by hikonekeikan | 2012-02-04 19:27 | 辻番所・足軽屋敷

談話室「それぞれの彦根物語」2011.10.15

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# by hikonekeikan | 2012-01-31 13:51 | 談話室「それぞれの彦根物語」

昭和30年代の彦根と湖東、そしてハイブリッドな未来へ

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  昭和30年代の彦根と湖東
                 野村しづかず さん

d0087325_0294354.jpg  2011年12月17日午前10時。花しょうぶ通りの寺子屋力石の軒の瓦には、前日の雪が解け残って白い帯を作り、そこに時折しぐれ雨が降りかかる寒い朝となった。こんな日は人の集まりも悪いだろうと予想していたが、次々に人が入ってきて、開始時刻には35名近くになり、狭い町屋は一杯になった。その後も人は増え続け、最後には私も含め5~6人が「通りにわ」に立って話を聞く状態になってしまった。
 
 野村しづかずさんは、スーツジャケットにネクタイをきちんとしめ、正座で、入ってくる同級生や元同僚という人達と挨拶をかわされていた。緊張した面持ちと細い縁の眼鏡ごしにのぞく神経質そうな目が印象的だった。

「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」
 野村さんは、昭和30年に彦根東高校を卒業し関西電力に就職、彦根営業所に6年間勤務した。昭和31年夏、20歳の野村さんは念願のカメラを買って変化する30年代の滋賀を精力的に撮影し始める。そして、平成8年の定年退職後、撮りためた3000枚の中から昭和30年代の50カットを選び写真展を開催していたところ、嘉田由紀子さん(現滋賀県知事)から、撮影した場所の現在の様子を取材し、比較して出版することを勧められる。そして、平成19年11月、「写真でつづる湖国の原風景-昭和30年代の記憶」を自費出版された。これが日本自費出版文化賞を受賞。本は完売し現在は図書館でしか見られないという。

 嘉田さんは、序文で「『自分今昔』ともいえる写真でつづる自分史を提案させていただいた。写真の「自分化」と「立体化」が埋め込まれている。自己表現であり時代伝達であることに成功している」とその成果を讃えている。

彦根・湖東の昭和30年代
 「明治維新や第二次世界大戦の敗戦の時、政治や社会の体制は変わったが、人々の暮らしや生業、地域の環境や風土までは変わらなかった。ところが、昭和30年代はくらし、生業、地域の景観や環境までが大きな変化を遂げた。それまで連綿と続いてきた自然と人の暮らしのつながりが切れ始めた。」と野村さんはいう。

 彦根物語で紹介された彦根・湖東の30年代は、昭和31年11月19日の東海道本線全線電化の写真で始まった。試験電車が彦根駅のホームに到着し、引率された小学生達が日の丸の小旗を振って出迎えた姿を捉えている。対照的に最後のSL「雲仙」が彦根の踏み切りを通過する姿も映し出された。また、昭和31年12月の写真では、街頭テレビが塀の高さに設置され、防寒着を着た沢山の人達が見つめていた。

 次に農業の変化が紹介された。牛と人の力による水田の田起こし、田植え、草取り、稲刈り、はさがけの光景や、湖辺の水郷地帯で田舟を運搬手段として利用する姿が、耕運機の登場で牛がいなくなり、干拓・圃場整備で水路も田舟も姿を消した。
 漁業では、彦根で行われていた地引き網漁の姿が映し出された。担い手は沖之島の漁師達で、信長以来の朱印状で漁業権が認められていたという。しかし、40年代から共同作業ができなくなってしまう。淡水真珠の養殖も全盛期で、彦根の曽根沼での母貝への核入れ作業が写された。
 この時代は、琵琶湖の水が飲めた時代であった。簡易水道が整備される前の昭和34年に沖之島で撮られた写真には、少女が琵琶湖の水を家に運ぶ姿が写っている。

 際だつのは、大規模開発だ。昭和39年4月に名神高速道路栗東-関ヶ原間が開業したが、昭和37年4月に撮られた写真は、愛荘町松尾寺の山をブルドーザーが削り崩す現場を背景に、工事をみる菅笠を被った旅の僧の後ろ姿と、その脇に座って横を向いてキセルをすう手ぬぐいで頭を覆ったお爺さんが写っており、二人の人物と工事現場のコントラストは、まるで黙示録のようだ。東海道新幹線の突貫工事も行われていた。さらに、大きく地形と自然と景観を変えたのが内湖の干拓だ。干拓前の津田内湖の全景を八幡山から撮影した昭和32年11月の写真は、素晴らしい景観と自然が失われたことを痛感させる。

 町の姿も大きく変わった。彦根市の佐和山では、野田セメントが工場を拡大し、松原では湖上観光船が出入りする度に人力で橋を回転させた。両岸には自転車とバイクが船の通過を待っていた。町で買い物をする女性は、背中にも両手にも荷物を一杯もって歩いていた。子供たちは、群れをつくり、川や野原で遊んでいた。
 乗り物はバスが全盛で、近江八幡市小舟木の朝鮮人街道の松並木をボンネットバスが道幅いっぱいに土煙をあげて走る姿があった。昭和34年8月には彦根で初めての自家用車モーターショウが写されている。
 30年代のフィナーレは昭和39年10月1日の東海道新幹線開業と10月10日の東京オリンピック開催である。野村さんは米原駅から初めて新幹線にのり、カメラを持って東京オリンピックを見に行った。

 どの写真も、古いものと新しいものとのコントラストが際だっている。当時流行した映画「ローマの休日」に影響されてスクーターに乗りデートする若い男女と、手押し車に麦の束を満載して運ぶおばあさんが田舎道ですれ違う瞬間をとらえた写真はその典型だ。3分割法の手本のような構図と奥行きを感じさせる近景・中景・遠景の構成が強く意識されている。
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振りかえる30年代
 30年代は現象的には、電車、テレビ、家電製品とバス、スクーター、耕運機が登場し、高速道路、新幹線、大規模干拓、琵琶湖大橋などが出現するが、背後には石油エネルギー革命があった。このエネルギーの利用により、人々は、便利・速い・強い・大きいを実感できた。そして、自然からの自由、過去からの自由を理念に大量消費時代の坂道を登り始める。その先には、公害、日本列島改造、バブルがあった。そして、人と人との扶助の関係(自由な個人主義の台頭)、自然に従う生き方、子供の生きる力、地域のコミュニティ力が衰退していった。

 嘉田さんは、序文で「人が自分の身体で生きていた実感を良くも悪しくも強く感じていた最後の時代」という。そして「30年代に思いを至らすことは、単に懐古趣味としてのノスタルジーではなく、滋賀の、そして日本の未来を照らす大きなヒントにもつながるのです」と書いている。同じ言葉を野村さんも強調した。
 では、30年代を見つめる意味は何か、未来への大きなヒントとは何だろうか?


ハイブリッドな未来
 野村さんは、「写真を撮った当時は牛や地引網がなくなるとは思っていなかった」と言った。今だからわかる。50年たって歴史的に俯瞰できる現在になって初めてわかることがある。この「歴史的俯瞰」の上に、現在を仮に坂の上の社会とすれば、昭和30年代は、坂の上をめざして脇目もふらずに登っていた上り坂の社会だった。そこを賞賛するつもりも批判するつもりもない。歴史的俯瞰の上に立って、現在から未来に必要なのは、右か左かではなく、右と左を統合したハイブリッドな未来像だ。


津田内湖の写真
 談話の中で大きな話題になったのが、津田内湖の全体を八幡山山頂から撮った写真だ。
聴衆の一人だった滋賀県立大学の柴田いづみ教授は、こういう写真を探していたという。教授は、近江八幡市を中心に湿地保全のフィールドワークを学生達と住民とで毎年実施している。次回にはぜひ使いたいとおっしゃった。

 この話を聞いていて、「魚と恋に落ちた僕」(ダン・バーバー)という話を思い出した。
 ダンはシェフで、ある時とてもおいしい魚に出会う。その魚は、南スペインのセヴィーリアにあるヴェラタ・ラ・パルマ養殖場でとれたものだ。(滋賀県立大学はセヴィーリア大学との交流協定を2011年に締結している)
 この養殖場は、グアダラキビール川の河口にあって、1980年までアルゼンチンの業者が湿地を干拓にして肉牛の放牧をしていた。この会社は倒産し、1982年スペインの会社が土地を買い取り、運河の水を逆流させて内湖に戻し、109km2の養魚場を作った。(びわ湖の南湖を二つ合わせた広さ) 
 この養殖場の特徴は、魚に餌をやらないことだ。さらにフラミンゴなどの鳥が60万羽もいて、魚と卵の20%は食べられてしまうのに放置している。効率は悪い。生物間の食物連鎖を管理し、自然の生態系の恵みを受け取るだけ。
 しかし、健康で、なにより魚がおいしい。普通の魚は皮に苦みや臭いがあるので取り除くが、ここの魚は皮がおいしい。水が健全だから皮で汚濁物質や化学物質を防ぐ必要がない。これこそシェフが待ち望んでいたおいしい魚と未来の養殖、そして本来の漁業だ。
 「相手を知れば知るほど好きになるのが本物の恋だ。僕はここの魚と恋に落ちた」、という話だった。


クリエイティブ経済にいる我々
 この養殖場は、これまでの発想とは真逆だ。こういう形に農業や漁業が変化するのが理想だ。ともかく、おいしい、安全、環境によい、健康だ、昭和30年代の魚のように。それがブランド価値を持つ。クリエイティブ価値といってよい。
 人工飼料と化学物質を投与され過密に育てられた養殖魚をシェフは使わない。少々高くてもおいしい天然魚、それも地元で取れた魚を、鮮度と素材を生かす腕のいいシェフが料理する。それに喜んでお金を払うのがクリエィティブ経済だ。それが現在の先進国の経済だ。

 「それで世界の食糧不足が賄えるか」という主張にはウソがある。まず、この国は大量に食料を輸入し大量に廃棄している。そして世界には10億人の飢えた人々がいる。食糧不足の真の原因は、狭い農地と機械化の低さによる「低い」農業生産性にあるのではない。

 さらに、この先に見込まれる食糧不足はいわゆる「農業技術の革新」では解決しないだろう。なぜなら、真の原因は、技術の未熟ではなく資源の枯渇にあるからだ。土壌の喪失、森の喪失、水源の枯渇、砂漠化、魚の激減、多様性の喪失など、いずれも資源の枯渇を意味する。

 今、30年代を見つめる意味がそこにある。坂の登り口である30年代と坂の上の現在を俯瞰すれば、未来へのヒントは自然の資源・エネルギーの回復・再生と持続可能な利用への転換にあることがわかる。そのための工夫の余地は極めて大きい。クリエイティブ経済は、その工夫を創造的と評価する。必要なのは、これまで捉われてきた発想の転換だ。


城下町の写真
 私には、もうひとつの期待があった。
 30年代の彦根市芹橋の足軽屋敷地を写した写真だ。とくに路地の塀はどうなっていたのだろうか。野村さんなら必ず撮っているはずだと期待して、数日後、図書館で調べてみた。

 すると、武家屋敷の低い土塀が並ぶ狭い路地と、その手前でエプロンを来たお婆さんが手押し車を押している姿が目に飛び込んできた。土塀は漆喰が落ちて土壁がむき出しだが、塀の向こうに見える緑の木々とともに美しい町並みが続いていた。白黒の写真だったが、美しい。色が見えるようだ。
 ところが、それは昭和37年5月に大津市膳所1丁目旧小姓町、御徒町あたり撮影された写真だった。野村さんは、当時職場の先輩に誘われ、この町へ俳句の吟行に来たことがあると書いている。期待ははずれたが、とにかくその場所に行ってみた。多くの場合、こういう旅は失望に終わることを知りながら、行ってみないではいられなかった。

 12月26日、雪が断続的に激しく降る日だった。その場所はコンクリートの吹き付け壁またはブロック壁に変わっていた。沢山の電信柱が立って、遠くに大津プリンスホテルが雪に霞んで見えた。しかし、激しくなってきた雪の中をさらに歩いてみると、門も建物も古い形式をとどめたままの一角に突き当たった。今でも十分に美しかった。もし、この通りが保存・修景されれば、沢山の散策する人々でにぎわうだろう。歴史の恩恵を最大限に受け取るべきだ。歴史を否定するのではなく、歴史を活かして持続可能な活用をする。大津・膳所の旧東海道沿いの悲惨な変わりようを見ているだけに救われる思いがした。歴史資源を枯渇させるのは、未来への贈り物を枯渇させるのと同じだ。
 雪の中で、私は急に元気になった。ひょっとして恋に落ちたのかも? (By E.H)
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# by hikonekeikan | 2012-01-27 07:00 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2011.12.17

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談話室「それぞれの彦根物語」2011.11.12

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