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NPO法人 彦根景観フォーラム

談話室「それぞれの彦根物語」2012.7.21

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# by hikonekeikan | 2012-08-08 18:17 | 談話室「それぞれの彦根物語」

足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった

足軽辻番所サロン 芹橋生活31

普請方手代日記「諸事日記」をよむ(1)

  母利美和 (彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)

 彦根景観フォーラムでは、江戸時代に築かれた彦根藩最大の足軽組屋敷地・芹橋で、毎月第3日曜日の午前10時30分から足軽屋敷太田邸をお借りして「辻番所足軽サロン 芹橋生活」を開催しています。

 歴史と調和したまちづくりをめざして、保存・再生が進められている辻番所・足軽屋敷をどう活用するのか、まちの特徴である歴史的な路地を活かした、若者も高齢者も安心して住める「まちづくり」をどう進めるかなどについて、これまで話しあってきました。

 今回は、芹橋8丁目の芹川堤防に接して建っていた彦根藩御普請所に勤務した足軽の日記「諸事日記」を、母利美和先生(京都女子大学教授・彦根景観フォーラム理事)と一緒に読み解き、ベールに包まれた足軽の仕事の実態を探りました。


兵士、警備員、そして下役人としての足軽
足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった_d0087325_23413761.jpg 足軽の仕事(役儀・やくぎ)は、第1に軍役(ぐんやく)である。鉄砲や弓で戦う足軽は、安土桃山時代から江戸初期の合戦の主力であった。
 第2に、城や門などの警備がある。これは、城中番と呼ばれ、負担が軽いため隠居した足軽が門番として働く「番上がり」のしくみもあった。
 第3は、各役方(役所)での下役人としての仕事である。彦根藩では、行政機構として普請方、作事方、町方、筋方などがあり、普請奉行、作事奉行、町奉行、筋奉行などがおかれていた。その奉行のもとに実務を担う下役人がいたが、その多くは足軽などの下級武士であった。役所の中でも最も足軽の人数が多かったのが普請方であった。
 
 奉行の配下で下役人を管理する中間管理職が手代である。手代は足軽身分であり、普請方のほかに、6名の筋奉行の下で地方の村を支配した筋方の手代、舟方、作事方などの手代がいた。なお、町同心(町廻り衆)も、組足軽ではないが池須町の足軽居住区に屋敷を持っていた。

 「諸事日記」は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、普請方手代見習いに任命された文化8年(1812年)から文政7年(1825年)までの13年間の日記である。この種の記録としては、文政7年(1825年)から文政10年(1828年)までの小野正好による「官事録」、正好の子にあたる小野・助三郎・正虎による嘉永6年(1854年)からの記録「公用留」、同じく正虎による文久2年(1862年)からの「公用留」がある。足軽小野家は、4代から5代にかけて普請方手代を務めていたことになる。


普請方を支えた足軽達の役割
足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった_d0087325_23425050.jpg ところで、普請方は今日の土木事務所にあたる役所で、城下町の石垣や道路、河川などの整備と管理を担当し、建物の建設や修理は、作事方が担当していたとされている。しかし、藩によってその役割は異なり、また時代によっても異なるようだ。

 母利先生は、時代ごとの普請奉行配下の役人について、その役名と人数、出身階層を明らかにされた。
 それによると、天保7年時点で65種の役名があり、299人の下役人がいるが、このうち足軽身分は40種の役名で221人、旗指身分が12種の役名で39人、扶持人が13種の役職で39人であった。

 これが天保11年になると、足軽が役職名で1増、人数では249人で28人増、旗指が42人で3人増、扶持人が40人で1人増と、やや増えているが大きな変化はない。

 ところが、元治元年(1864年、明治維新の4年前)でみると役職名が激減し、人数も足軽が58人と天保11年より191人も減少、旗指は26人と16人の減少、これに対して扶持人は39人の1人減少でほぼ変わっていない。この激減の原因は、幕末の軍事対応で足軽や旗指は本来の軍役に動員されていたが、村に住み、藩から扶持米をもらって村行政を担当していた扶持人には影響がなかったとみることができる。



普請方足軽の経歴
 天保7年の普請方下役人のうち、足軽身分に注目してみると、最も人数の多いのが場所役の35名で、次に梃子役の29名、ついで奉行の代行である手代が13名、物書き役12名、看板役10名となり、あとの35の役名は10名未満である。

 母利先生が示された普請方下役名寄資料(天保7年)により各役人の経歴をみると、手代の経歴は不明だが、それ以外の役職では、梃子役、場所役を初期に経験している人が多い。つまり、普請方では、まず梃子役、場所役を経験し、次第に別の役職を経験していくが、他の役所との転出入は極めて少ないようだ。

 所属組を見ると、手代は善利橋六丁目に集まっているが、他は善利橋の一丁目から十五丁目まで広く分散しており、上組、中組、下組、北組が混じっている。


普請方手代の仕事と交際
 さて、「諸事日記」を読み解いていこう。なお、日付は旧暦であり、新暦より約1か月遅れるとみてよい。

足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった_d0087325_23521888.jpg 日記は、足軽の小野・助三郎・正好(まさよし)が、、文化8年11月28日、手代見習いに任命され、善利橋6丁目に引っ越したところから始まる。

 文化8年11月28日、晴れ、藩の守野御林で松の枯木の入札に立ち会う。落札者から札を受け取り、切株に極印を打つ。手代の日夏永介、木村鉄太郎、小野が出向き、笠持一人、御役夫が同行した。12月11日は、雪降りで、上番衆町小山鹿之介宅で火事がおこる。仲間全員と両普請奉行が出勤する。現場検証を行い絵図を書く。仲間一人、絵図方一人、笠持一人、料紙箱一人、作事方より棟梁一人が参加した。絵図を承認し、普請奉行、作事奉行へ提出したというように、簡潔に事実と行動を記録し、出動した人物名を丁寧に記録していることが特徴だ。

 同日は雪かきを行い、八つ時分(午後2時頃)に佐和町魚屋文七がもめごとで傷害事件をおこし、奉行以下が出勤した。13日は、例年通り正月に門に飾る松飾りの手渡し、28日は城中と外堀周辺の一斉掃除の後、お歳暮を届ける。1月1日は家老と2人の奉行に年賀に参り、6日には見習いを仰せつかったことで手代仲間にお神酒をふるまう。その後、鏡開きなどの行事が続き、役所は11日から始まり、年間の出張当番を決め記録帳簿を作成している。


普請方のさまざまな仕事
 ここから文化9年の1年間の主な仕事をみてみる。

足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった_d0087325_081934.jpg 土木作業では、6月に芹川から取水する上水道に溜まった泥の浚渫、7月には善利川橋詰に集めた赤土を運んで巡礼街道を補修している。8月末からは、松原川口の腰石垣の修理にかかり、梃子役や銀山日雇を用い、米原や長浜などから5~6艘の舟を動員している。9月には沖之島へ石材の切だしの検分に出張する。ついでに長命寺に参詣している。11月から松原川口の浚渫を始める。藩南部の乙女浜から北部の山利子、片山にいたる港の舟を28隻も動員して1月ぐらい続けたとみられる。

 次は、城下町の草取りである。例年、足軽の出人(動員)によって大規模に行う。この年は3月に2回、4月に2回、6月に2回、7月1回、8月1回行っており、6月11日の草取りには足軽出人85名と記録されている。冬の雪かきも普請方の仕事で、11月、12月に6回の出動があった。

 意外だったのは、武具甲冑の虫干しが普請方の仕事である点で、6月12日の土用入りから城中の櫓に入り9日間、天候を見ながら実施している。さらに、火事や傷害事件の立ち会いにも普請方が出向いている。


藩主のお国入りとまつたけ狩り
足軽は、藩の行政を支える縁の下の力持ちだった_d0087325_23545412.jpg 面白いのは、この年(文化9年)の6月に、藩主の初めてのお国入りがあったことだ。小野らは、藩主お国入りの連絡を聞くや家老にお祝いを申し上げに参上し、6月18日の到着時には、殿様が城下町に騎乗して入ってくるのに対し、普請奉行、作事奉行達が出迎えて並ぶ順番、小野らの手代の並ぶ場所が記載されている。切通し桝形より内側に順番に腰を落とし蹲踞の姿勢を取っていく。その先に家老や他の奉行が並んでお迎えする。見物する人の数も夥しいと記録している。

 6月29日は、殿様の城中見回りで二十間櫓から着見櫓までを普請奉行、作事奉行が案内した。奉行らは櫓の下に平伏し、小野らは、御宝蔵後ろの方に下伏した。その後、殿様は、西の丸で武装した足軽67人をご覧になり、11月10日には、足軽鉄砲隊の射撃訓練を、御用米矢場で上覧されたと記録している。

 10月3日には古城山(佐和山)で、藩主らによるまつたけ狩りがあり、小野らはその準備に出向いている。大洞弁財天から船着き場、弁財天からお茶所までの道筋を掃除し、松茸を入れる桶や美しく飾ったかごを数か所に配置した。そのあとの10月6日には、目付や奉行に山でまつたけ狩りをしてもよいと許しが下り、里根山に役所から酒や豆腐などの料理を送っている。

 12月28日には、両奉行と親戚に歳暮に行き、31日には役所で25匁をいただく。そして、正月の年賀、鏡開き、お役所開きとつづく。


日記は未来への贈り物
 今回は1年分を読み解いたが、いつ、どこで、だれが、何をしたかが簡潔明瞭に書かれている。地図に記入していけば大変おもしろいだろう。日記はまだまだ続くが、先読みした範囲では、善利川の出水、堤防の補修、中山道の本陣で大名行列を迎える準備、藩内各地の街道と山林の検分の記載も見えた。
次回が楽しみだ。

 ところで、小野・助三郎・正好は、文化8年(1812年)から200年後に、彼が書いた「諸事日記」を私たちが読むとは、想像もしていなかっただろう。日記はただの記録ではなく未来への贈り物なのだ。(By E.H.)


次回は、

足軽辻番所サロン「芹橋生活」32

「官事録」を読む(2)

 母利美和さん(彦根景観フォーラム理事、京都女子大学教授)


今回の続きで、普請役手代の小野正好が書いた文政7年(1824年)からの公務の記録を読みます。

平成24年7月22日(日)10:30-12:00
芹橋二丁目足軽屋敷太田邸
資料代 100円

# by hikonekeikan | 2012-07-10 23:58 | 辻番所・足軽屋敷

談話室「それぞれの彦根物語」2012.6.22

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# by hikonekeikan | 2012-07-09 13:53 | 談話室「それぞれの彦根物語」

平仮名は、美しくなければならない

それぞれの彦根物語92

毛筆・硬筆・・
  活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ 


                           田中貴光さん (書家)

平成24年6月23日(土)10時30分~12時 
ひこね街の駅「寺子屋力石」

平仮名は、美しくなければならない_d0087325_22231089.jpg 6月の花しょうぶ通りには、早くも夏の日差しが降り注いでいた。しかし、寺子屋力石に入るとひんやりとした町屋特有の涼しさを感じる。
 今日の彦根物語は、書家の田中貴光さんだ。寺子屋力石には、書道を習っていると思われる女性がたくさん来られていた。若い人も年配の人もいる。いつものにぎやかなお喋りとは違い、話し声がおとなしい。隣に座っている若い女性に声をかけてみると、彼女はアメリカ人で、週3日愛知県の企業で働き、残りの2日はミシガン州立大学連合日本センターで日本文化を学んでいるという。彦根でホームステイしていて、ステイ先の若い女性と一緒に来ていた。小声だが的確な日本語だ。
 そうしているうちに開始時間となり、田中貴光さんが紹介された。

硬筆も毛筆も一流
 田中貴光(きこう)さんの貴光は雅号だ。小学校一年から始めて60年弱の書歴があり、多くの展示会に出展、「大書心会」硬筆・毛筆大賞を受賞。硬筆、毛筆ともに文部省認定書写認定1級である。この認定は、客観的な技量判定基準を持つ唯一の公的認定で、1級は指導者としての資格が認められる最高位である。

 田中さんのすごさは、最高位を硬筆でも毛筆でも持っている点にある。漢字も仮名も、大きな字も小さな字も、太い字も細い字もすべてを極めている。当然ながら、彦根を中心に5会場で書道教室を開いている。

 すばらしい実力を持つ田中さんだが、姿からは芸術家らしい華やかさが伝わってこない。小柄な身体に長く黒い上着を着て、黒いスラックス姿という黒づくめの服装で、大きな丸テーブルの隅でうつむき加減に話される。
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平仮名は、美しくなければならない
 田中さんの主張は、わかりにくかったが、あえて一言で言うなら「平仮名は美しくなければならない」ということだ。日本語独特の文字である平仮名、その美しさの追求のために、田中さんは、現在では使われなくなった変体仮名を使って書の作品をつくる。
 「活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」とは、平仮名の美しさをどこまでも追求する田中さんの方法を示していたのだ。

変体仮名とは
平仮名は、美しくなければならない_d0087325_22285858.jpg 現在、私たちは、「ア」に当たる平仮名に、「あ」(「安」に由来)の字ただ一つだけを用いている。しかし、明治33年以前は、「ア」の平仮名を書くのに、「安」に由来する「あ」と、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字を自由に用いていた。この安・阿・悪を仮名の「字母」というが、平仮名は、字母の音(字音、字訓)だけを使ったもので、意味による使い分けはない。(字体は右の写真を参照されたい。)

 一音に一仮名文字と決められた時、「あ」以外の、「阿」に由来する字、「悪」に由来する字は異体の字として教えられなくなったが、当時は、まだ使われており「変体仮名」と呼ばれた。つまり、「あ」には2つの変体仮名が、「い」には、「意」、「伊」、「移」を字母とする3つの変体仮名があり、明治以前は、平仮名・変体仮名という区別がなく、平仮名を使うときは、さまざまな字体を自由に使っていたのだ。

 紀貫之の『土佐日記』、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』のような平仮名文学、井原西鶴の「日本永代蔵」(大金持ちになる方法)のような草紙物、また手紙や個人の手記なども変体仮名で書かれている。これが、現在の私たちにとって古い文書が読みにくい原因の一つになっている。

変体仮名で美しく
 当たり前のように思っているが、現在の活字になった平仮名文は、一音一字で書かれている。そこに、変体仮名を使うことによって、平仮名文はどのように美しくなるのだろうか。

 田中さんによれば、
①さまざまな形の文字を混ぜることにより、字面を美しくすることができる。
②同じ文字が文章の中で重ならないようにできる。
③字体により長さや幅が異なるので、一行の長さを調整したり、前の行の文字との間隔を空けてバランスをとる「散らし」ができる。
の3つの要因により、格好よく、変化をつけて流れるように平仮名を構成して書くことができるという。

 そして、どこに、どの変体仮名を使うかは、美に対するセンスの問題であり、字面の美しさ、バランスなどは古典に学んでいるという。
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平仮名の美を表現する
 田中さんの作品は、いずれも小さくて繊細な平仮名が流れるような書体で書かれている。

 作品1は、百人一首の全句を変体仮名を使うことで扇型に揃えて書くことができた傑作である。
 作品2は、寅年に書かれた作品で、万葉集から虎に関係する歌を集めて、中心に和歌を書くことで真中を散らした作品である。真中に一本の文字の列が上下に貫いているように浮かび上がる。
作品3は、掛け軸に扇型の文のまとまりを流れるように構成したうえで、源氏物語の活字本から変体文字を使って書き起こした作品である。
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 作品を観賞するポイントは、まず、紙に注目する。紙は、和紙の継色紙を使う。赤い料紙の上に別の色の料紙を継いでその上に文字を配置する技法である。

 次に、仮名は、右流れに振る形が美しいので、字体の結びを右流れに振っているかを見る。
 さらに、字の形と余白のバランスが美しいと感じられるかを観賞する。

 田中さんが作品を作るときは、まず、全体の形を構想する。その上で、変体仮名で形に表現し始める。一行目を見ながら二行目を書く。上の文字と次の文字の間の余白、右の行との間の取り方、字の大きさなどを調整する。そして、墨がかすれるまで書く。墨を継いだときの濃淡も一定のリズムを構成するように調整する。

 さらに田中さんならではのこだわりが、本来硬筆ではあらわれない「かすれ」などの毛筆の特長を硬筆で表現するテクニックだ。

平仮名の美意識と「倭漢抄」
 田中さんの話は、わかりにくかった。その原因は、活字文化に慣れた私たちには、毛筆で手書きの時代にあった日本の伝統に根ざした平仮名の美意識が実感できないからだろう。

 平仮名は、日本語独自の文字として、また多くの異体字を持つ文字体系として、平安時代が終わる12世紀にほぼ完成していた。その後は、一貫して平安時代のものが平仮名の手本とされてきた。

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 その代表が、藤原道長によってつくられたとされる国宝「倭漢抄」である。「倭漢抄」は、5月27日まで京都国立博物館で開かれていた近衛家の名宝展「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」に出展されていた。縹(はなだ)色(薄水色)や橙(だいだい)などの柔らかな色合いの紙に亀甲や唐草、鳳凰などの装飾文様が刷り出された美しい料紙を32枚も継いだ巻紙に、中国の白楽天らの漢詩文と、紀貫之や柿本人麻呂らの和歌がしたためられている。和歌の平仮名は、流れるようになめらかな柔らかな線で毛筆で書かれていて、独特の「雅(みやび)」な美しさを表現している。

 「倭漢抄」は、調度手本とよばれ、最も格の高い贈り物にされた。藤原道長は、書の名手に依頼して調度手本をいくつも作らせ、宮中の要人に贈り、出世競争に勝ち抜く手段にした。
 源氏物語も、道長が紫式部を起用して平仮名の物語を書かせ、完成後は数多くの写本を作らせ、宮中に配布した。そのようにして、道長は平安文学の流行の先頭に立ち、歌合せなどの華やかな文化サロンを演出して、宮廷政治をリードしたと言われる。 当時の貴族は、特に男女の恋愛では面と向かって逢うことが稀だったので、和歌が重要なコミュニケーション手段になった。貴族たちは、歌を贈り、歌を返した。そこでは、和歌の内容と文字や紙の美しさが交際の重要な判断材料となった。多数の調度手本や和歌集を贈った道長は、やがて天皇家との婚姻に成功し、最高の地位につく。
 この時に、日本の平仮名の美が決定づけられたといっても過言ではない。
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書家のカッコいいアイテム
 田中さんは、毎日10時に部屋に入り、作品づくりに没頭して1時に上がる生活を続けている。
 書家というと、彦根では、「日下部鳴鶴」を連想する。明治三筆の一人で、 近代書道の父と言われた。白いひげを豊かにたくわえた紋付羽織姿の老人の写真が思い浮かぶ。この世界では、田中さんはまだまだ若い方だ。

 ところで、田中さんの胸に、古い和本の表紙を付けた手控え帳のようなものが入っているのに気付いた。これは、なんだろう。ぜひ聞いてみたくなったが、機会を探しているうちに彦根物語が終わってしまった。
 もし、それが手控え帳で、田中さんがさっと取り出して、和歌を毛筆で書きつけているとしたら、それは相当にカッコいい。(By E.H.)


次回のそれぞれの彦根物語93は、

「彦根の『殿様文化』を打破するためには」

山田 貴之さん(滋賀彦根新聞社編集長)

日時 平成24年7月21日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
コーディネーター: 山崎 一眞(彦根景観フォーラム理事長) 

お楽しみに。
# by hikonekeikan | 2012-07-01 23:30 | 談話室「それぞれの彦根物語」

談話室「それぞれの彦根物語」2012.5.19

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# by hikonekeikan | 2012-06-01 14:20 | 談話室「それぞれの彦根物語」