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NPO法人 彦根景観フォーラム

屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91

それぞれの彦根物語91

鍾馗さんにはかなわぬ、波兎

   杉原 正樹 (DADAジャーナル編集人)

2012年5月19日(土)@ひこね街の駅「寺子屋力石」


屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91_d0087325_2282790.jpg 奇妙で人の気を引くタイトルだ。おまけにおきて破りの読点が打ってある。おそらく「波兎(なみうさぎ)」という言葉がわかる人はいないとみて、屋根の上にのる鍾馗(しょうき)さんを導入したのだろう。知名度があり人気上昇中の鍾馗さんにはかなわないが、波兎というキュートなうさぎ達が屋根にいるんですよという意味ではないだろうか。
 声に出して読んでみると、「鍾馗さんにはかなわぬ、(一拍)なみ~うさぎ~」と大見栄を切る仕掛けらしい。

 こんな凝ったことをする杉原さんは、DADAジャーナルの編集人。DADAジャーナルは、読売新聞に月2回日曜日に折り込まれる湖北・湖東地域限定のフリーペーパーで、32,000部を発行する。1989年から始まり2012年5月13日で538号となる。発行所は(有)北風寫眞舘(編集・デザイン工房)で、杉原さんが代表だ。ペンネームで記事も書く。言葉へのこだわりも見える。協力は淡海妖怪学波(派ではない)で、これも彼が代表である。

波の上をはねるうさぎ達
 「波兎」とは、波の上をうさぎがとびはねて走っている文様で、神社、寺院、古民家の屋根瓦や欄間などの彫刻、蔵の窓の装飾などに描かれている。別名を「竹生島文様」という。
 杉原さんは、1998年の「まるごと淡海」(サンライズ出版)の出版に参画し、「淡海のデザイン」(p18)で、波兎を近江発祥の独自なデザインではないかとの説を提示した。特に、波の上を走る兎が2匹で対になっている構図と、同じ方向に走る二匹の兎のうち一匹が後ろを振り返り、もう一匹を見る構図が近江独特のものではないかと考えた。
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 仮説検証の方法は、近江の波兎が近江以外の波兎とはデザインが異なることを数で示すことである。もう一つは、年代的に最も古い最初のデザインにたどり着くことだ。杉原さんは波兎を求めて湖北・湖東を歩き、全国各地に足をのばし、写真をとり、コレクションを始めた。その道のりを聞いていると、恋人を捜し求めてさすらう純愛ドラマの主人公のように思えてくる。


キュートなうさぎ達
屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91_d0087325_22243042.jpg 具体的に波兎はどこにいるのか。杉原さんは、湖東、湖北の神社や寺院、民家などの名前をあげて紹介した。彦根では、うだつの上がった民家の鬼瓦に「兎」と「龍」の文様があり「うだつ」を表現していたという。この民家は空き家となり鬼瓦は落ちてしまっている。そのほかに、醤油屋の屋根瓦や七曲がりの蔵の窓飾りなどもあった。名古屋にも奈良にも出雲にも鳥取にも波兎文様は見つけられる。杉原さんの仮説は検証がむずかしい。

 次々にうつし出される波兎文様を見ていると、さまざまな形や表情のうさぎがいる。なかでも、杉原さんは、「キュート」に跳んでいる兎が好きなようだ。何度も「キュート」という言葉を使い、両手を上に伸ばして前傾姿勢をとり跳ぶ姿を表現した。また、彦根市松原町の旅館「ふたば荘」のゆかたには、杉原さんの勧めで波兎が描かれているという。どんなキュートなゆかたなのだろう?


波兎と竹生島のふしぎな関係
 ところで、なぜ波兎を竹生島文様というのだろうか。竹生島文様だから、原点になるデザインが竹生島にあるに違いない。杉原さんによれば、1995年、サライという雑誌の取材で竹生島に波兎を探しにきた人は、ついに見つけられなかった。でも、「うさぎ目」の持ち主である杉原さんは、宝厳寺唐門に三匹の兎を見つける。そして対になっているはずだからもう一匹いるでしょうと住職に問うと、一匹は強い風で落ちたので保管してい屋根の上のキュートなうさぎ達の物語 それぞれの彦根物語91_d0087325_22343946.jpgるとの答えが返ってきた。だが、唐門は秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を移築したもので、竹生島発祥とは言えない。(デザインを付け加えた可能性はある)

 通説では、謡曲「竹生島」の一節「(竹生島も見えたりや。)緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり。月海上に浮かんでは、兎も波を奔(かけ)るか。面白の浦の気色や。」から兎が波の上を駆けるデザインがうまれたとされる。これでは、竹生島という地域で生まれたという証拠にはならない。
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 そこで、大国主命が助けた「因幡の白兎」伝説が登場する。イナバの白兎がオキノ島からイナバに渡ろうとして和邇(ワニ)をならべてその背を渡ったが、最後に嘘がばれてワニに毛皮をはぎ取られ、泣いているところをケタの前まできた大国主命に助けられる話だが、びわ湖の周りには、イナバ、ケタ、ワニ、オキノシマの地名があり、近江こそが高天原であったという説がある。だからといって、イナバの白兎がモチーフになって近江で文様が生まれたといえるだろうか? 杉原さんの求めるオリジナル波兎はなかなか捕まえられない。
 もっとも、高校古文の教科書には、竹生島の老僧が湖上を闊歩し、参詣に来た延暦寺の僧を驚嘆させた話が載っている(古今著聞集545話)くらいだから、兎が波間を駆けるくらいは竹生島ではたやすかったのだろう。

まちづくりの種を創造しよう
 杉原さんは、「私の話は実生活にもまちづくりにも役にたたない」という。たしかに身近なことにこだわったマニアックな話だが、これまでにない独自の切り口が新鮮で面白い。役にたつか役にたたないかは、聞き手の問題だ。幸いにも、寺子屋力石に集う多彩な人々は大なり小なりマニアックな人達だ。

 そして、マニアを単なるマニアで終わらせないのが花しょうぶ通り商店街のまちづくり精神であることも十分学んできた。やまもとひまりさんは、「武将・島左近×ねこ=しまさこにゃん」を創造した。ゆるキャラ星には、ねこ族、いぬ族だけでなく、ねずみ族やうさぎ族などがいる。うさぎ族には、ピーターラビット、バックスバニー、不思議の国のアリスのうさぎなどの有名人も多い。「○○×うさぎ=??」という方程式を解いてみてはどうだろうか。波兎に惚れている杉原さんが喜ぶかどうかはわからないけれど・・。(by E.H.)
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次回のそれぞれの彦根物語92は、

「毛筆・硬筆 ・・・活字から変体仮名を使って書き起こす楽しさ」

田中貴光さん(書家)

日時 平成24年6月23日(土)10時30分~12時
会場 ひこね街の駅「寺子屋力石」
 
# by hikonekeikan | 2012-05-24 22:40 | 談話室「それぞれの彦根物語」

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)

特集:彦根景観シンポジウム2012
     彦根・芹橋地区のまちづくりに向けて (2)


橿原市今井町の歴史的まちなみの
               保存と再生に学ぶ



今井町町並み保存会の活動 (2)

                 今井町街並み保存会会長 若林 稔さん

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 今井町町並み保存会は、住民の理事が90名、うち活動を主に担う常任理事は23名です。

 「見る建物から、使う建物に脱皮していこう」、「自分たちが主体となってまちを起す人づくりをしよう」を基本方針として、

①尾崎家、旧米谷家の保全と「大和今井を見る食べる会」、寄席、音楽会、奉仕活動の実施、
②今井まちづくりセンター、今井・まちや館、旧米谷家の管理運営とガイド、
③「今井町並み散歩」の開催(5月第3日曜を中心に1週間、茶行列などを実施)、
彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_212490.jpg④フリーマーケット六斎市と重要文化財・県指定文化財内部公開の同時開催、
⑤メディアの撮影(年間20本以上)への協力と撮影マナーの徹底、
⑥建物などが景観にそぐわない場合や景観を維持するための支援の市への要望、
⑦講演会・研修会の実施、機関誌「いまいは今」(月1回)の発行、
⑧その他、今井小学校6年生の「大和今井の茶がゆ体験」の開催、留学生や海外研修生、東大、奈良女子大の学生の受け入れ

などを行っています。


今井のまちづくりは第3期へ
彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_2132362.jpg 第3期にあたる今後10年を展望すると、保存を基本前提にしてきた今井町は、観光ではなく「人」と「商い」で活性化をめざします。これで町が生き返り、空き家がなくなっていくのが理想です。

 「商いの里帰り」事業は、今井町並み散歩の「今井町衆市」(5月19・20日)で試行しています。地元出身商人への故郷出展の依頼、堺などとの商いの連携が狙いです。

 「今井の食文化」事業は、「茶がゆ」だけでなく江戸時代の食、中世の食を創生し、本物のおもてなしの再現を狙います。

「今井チャンネル」事業は、古老の知識・記憶を記録する番組づくり、各種イベントや来町者に参加いただく番組づくりを仕掛けています。

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_2151467.jpg まちの活性化には、人づくりが最大の課題。今井町だけでは創造的人材の絶対量が足りない。そこで、地域づくり支援機構と連携して「地域プランナー・コーディネーター養成塾」の実習の場、修了生の実践の場として活用してもらうことを考えています。



彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_1715421.jpg 
 地域づくりは地元がまずやるものであると私は信じています。強い臨場感を持てば、地域づくりの課題は見えてくる。社会を変えたければまず自分が変われ。できることを探す力、できることを実行する力、よく周りが見える力が大切で、進んで嫌われることができる人になりましょう。現状を変えるには「事あれ」主義で、機会を創り出しましょう。リーダーに年齢は関係ないと思っています。


空き家再生とNPOの役割

            NPO今井まちなみ再生ネットワーク
                        理事長 上田 琢也さん


彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_1635666.jpg 重伝建地区・今井町にも、老朽化した空き家が多くあり、現在も増加しています。そこで、空き家の活用を進め、町に定住する人を増やす取り組みを「今井まちなみネットワーク」では行っています。
 
 主な事業は、空き家バンクの運営、今井まちあるき(空き家紹介)実施と、空き家をプロットしたまちあるきマップと小冊子「今井町町屋暮らしのすすめ」の作成・配布です。

 昨年の空き家の問い合わせが60件以上、空き家情報バンクへのユーザー登録約60名、土地・建物の売買契約3件、賃貸契約22件が成立しています。

空き家を再生した事例には、宿泊体験施設「今井庵・楽」、長屋のサブリース事業、フレンチレストランの開業があります。

 私自身は、今井町に生まれ育った福祉施設の職員ですが、メンバーには建物取引の専門家がいます。空き家バンクは、借り手と所有者のつながりだけでなく、今井町のコミュニティとのつながり、行政やまちづくり組織などとの関係を大切にして、今井に住んでほしい人とはどんな人か、住みやすい町とはどんな町か、を常に考えています。

 空き家対策の基本は、まず所有者と十分に話し合うことです。所有者との関係を整理した後に、ボランティアで草刈りの実施、畳替え、トイレの水洗化などを行い、一つの再生サンプルを作ります。これが広告塔になって口コミで情報が広がります。もちろん、インターネットでの発信も行っています。

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今井庵・楽
 伝統町屋を再生、現代的感覚と耐震性能を盛り込んで町屋暮らしを体験したい方に貸し出す「生活体験用滞在施設」。
部屋は、茶室3畳、1階和室7畳半、2階和室7畳半。茶室、ひのき風呂、ミニキッチンを備え、冷暖房完備。
1泊2日で1名1万円、2~5名で1万5千円。




意見交換 (司会:笠原 啓史さん)

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_17172468.jpg 芹橋でも、老朽化した空き家が突然売却され、潰される。所有者が大阪などにいて情報が入らない。どう対応されているのか。また、若い人は古い町に本当に住んでくれるのか。

 所有者を聞き出して、足を運んで話すのが基本だ。空き家に人が住む実例が出てくると、口コミで情報が広がり、相談が集まるようになる。不動産屋にとって古い町屋は手間がかかるうえに儲からないので、十分に動いてくれない。NPOの方が親身になってくれるといわれている。ただし、古い町屋には、一般住宅と違う課題があり、それらを盛り込んだ契約書を「大和空き家バンク」でつくり、使用している。

 最近は都会暮らしの若い人達の移住が増えている。マンション住まいで子供たちの人間関係の希薄さに不安を感じている人が多く、近所どうしのふれあいが魅力という。古い町のコミュニティこそ、次世代への大切な贈り物だと思っている。


彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ(2)_d0087325_1718193.jpg 芹橋では、辻番所の保存運動に関わり「辻番所の会」を有志で立ち上げ、昨年、芹橋二丁目連合自治会に「まちづくり懇話会」ができた。今後、住民協議会などをつくり、まちづくりの合意を形成したいが、芹橋では、すでに多数の建物が失われて空き地になり、現代建築に建て替わっている所も多い。ここでまちづくりの合意を得るには、新しい家にも通じる防災上の協定や施設整備を共通項にしたらと思っている。
今井町では、防災に関する協定や防災広場の整備に至る住民合意は、どのようにしたか。


 今井町では、建物と町並みをそのまま保存するという基本方針で、伝建地区を選択した。都市計画決定までは、住民を二分する深い対立があり、今でも伝建地区について様々な意見がある。しかし、「伝建で保存」という合意が先にあったので、防災でもめることはなかった。


 彦根市では、花しょうぶ通りで伝建地区をめざして住民と協議を進めている。芹橋は伝建地区ではないが、住民の合意による地域協定ができれば、町並み環境整備を実施することは可能だ。

ただ防災は、まず自分たちでするのが基本。防災広場や防災小屋は、他人にしてくれという世界。そこが先走ると自分たちでしないで、行政依存になり、地域自主防災力は却って低下する。

 城下町の町割りや足軽屋敷群などの歴史的な建物を残しつつ、防災に力を入れるのは重要だ。いったん潰したら再生できない。文化も歴史も失うことになる。  (終)
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# by hikonekeikan | 2012-05-13 16:36 | フォーラム

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ

特集:彦根景観シンポジウム2012
       彦根・芹橋地区のまちづくりに向けて (1)


橿原市今井町の歴史的まちなみの
               保存と再生に学ぶ



 2012年3月20日(祝)、彦根景観フォーラム、辻番所の会、芹橋まちづくり懇話会は、11時より芹橋地区で特別公開中の足軽屋敷や路地の見学会を行った後、13時より四番町ダイニング3Fホールで彦根景観シンポジウム2012を開催しました。

 今回は、奈良県橿原市今井町から3名の講師を迎え、歴史的な資産の保存と住民のくらしの共存、まちの防災や活性化、空き家問題への対応などについて議論を深めました。2回にわたって、そのポイントをお伝えします。
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一歩踏み出そう、芹橋まちづくり

                 彦根景観フォーラム理事長 山崎 一眞 

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 芹橋は、旧彦根藩最大の足軽組屋敷地であり、歴史を感じさせる閑静な住宅地です。彦根市の中心部に位置し、買い物や生活に便利だが、路地がせまく車の利用には適していません。中心市街地の例にもれず人口減少・高齢化が著しく、1977年の1,234人が2008年には700人に、高齢化率は彦根市の18.7%に比べ芹橋は36.4%となっています。
 足軽屋敷の数は、1966年の158件が2007年には30件に激減。町並みは、空き家や空き地、青空駐車場が増え、周囲の町なみとは場違いな建物も増えて、歴史的な景観が損なわれています。

 足軽屋敷を保存し、歴史的町並みと路地を再生しつつ、安全で若者も喜んで住む町にできないか。前回の彦根景観シンポジウムでは、次のような町づくりの方向が明らかになりました。彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_1528357.jpg 

 ①芹橋の町並みは、路地を挟んで塀があり、少し後に建物がたち、間に庭があって緑が見える建て方でつくられている。この歴史的な建築ルールを守る住民協定が必要。

 ②4m未満の路地の維持は、都市計画法第42条の3項道路の適用で実現が可能。

 ③住民による自主防災の仕組みづくりが前提。

 この建築ルール/路地の維持/防災の仕組みをセットで合意できれば、少子高齢化、脱クルマ時代のまちづくりのモデルになると評価されました。
 シンポジウムを受けて芹橋で防災図上訓練を実施したところ、今の準備状況では震度7の地震に対処できないことがわかり、対応策を模索しました。

 芹橋の歴史的な建物と町なみの再生、防災性の向上をどう進めるか? 今日は、先進地の橿原市今井町のハード、ソフトの経験をお聞きして、住民、行政、NPOの皆さんと議論したいと思います。


今井町伝建地区の制度と事業

                 今井町並保存整備事務所長 田原 勝則さん

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_11435897.jpg 行政の立場から、ハード整備を中心にお話しします。

 今井町の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)は、東西600m、南北310m、面積17.4haで、ここに重要文化財が9件(寺社1、民家8)、県指定文化財2件、市指定文化財5件、伝統的建造物504件があります。芹橋より少し広いくらいの通りがあり、昭和30年代から10回以上、建物や町並みの本格的調査が行われています。

 今井町のまちづくりの理念は、文化財としての歴史的町並みと住民生活の共存により、活気のあるまちをつくり、街並みを未来に残していくことです。

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_15402325.jpg 伝統的建造物群保存地区(伝建)制度は、市からの申出により選定され、建物の修理、修景等の経費の一部が国から補助されます。この指定を受けるため、橿原市は伝建地区保存条例(H1.9.27)を制定し、保存計画の策定、現状変更行為の制限と許可基準、経費補助、伝建地区保存審議会設置を定めました。
 ところが、住民の意見が二つに分かれ、都市計画決定(H5,3)までに5年かかりました。この時、住民意見を調整するために市が「今井町町並み保存住民審議会」を設置しました。地区の各組織・団体の代表、学識経験者で構成し、保存計画、現状変更行為、許可関連、整備事業を審議し、市および伝建地区保存審議会に建議します。

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_15375043.jpg 建物の保存・修理については、伝統的建造物の外観を保存する修理・復旧で4/5、非伝統的建造物では外観を伝統的建造物と調和するような修景で1/2、2/3、新築の場合1/3が補助されます。22年度末までで262件、総事業費47億円のうち11億円を補助しています。このほか、伝建地区における建築基準法の制限を緩和するとともに、家屋、土地の固定資産税を軽減しています。

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_15385258.jpg 住環境整備事業(町なみ環境整備事業)は、住環境としての道路が狭い、公園・緑地が少ない問題に対処して、歴史的資産の保存と住環境の改善の両立を図るもので、①道路の美装化、②電線等の地中化 ③旧環濠の整備(復元)、④公園・生活広場・防災施設(防火水槽、防災倉庫、便所を併設した休憩施設)の整備、⑤今井景観支援センター(町屋を改修し東側を見学拠点、西側を事務所に活用)、今井まちづくりセンター(地区住民の交流の場、体験型見学施設)の整備、彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_1546887.jpg⑥伝統的建造物以外の建物の修景、屋外設置物、生垣の整備、⑦照明などのストリートファニチャーの整備を行っています。
 総事業費 29億円で、H22年度末で24億円の進捗です。最近、交通広場予定地から昔の環濠が発掘され、復元すべく調整しています。

 これらの公園や防災施設、センターを管理し活用していただいているのが、地域防災会や「今井町並み保存会」、「NPO今井まちなみ再生ネットワーク」、「今井町区域街並み環境整備協議会(大工さん達の勉強会)」で、活発に活動いただいています。


今井町町並み保存会の活動

               今井町街並み保存会会長 若林 稔さん

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_1144336.jpg 最初にお断りしますが、私の意見が今井町の住民の意見とはいえません。まちづくりには様々な意見があり、一本化はできません。私という人間が会長に推されていると考えてください。私は、今井町に生まれ、近畿日本鉄道(株)で広報や都市計画、美術館の仕事を担当、平成8年から街並み保存に関わり、今井宗久を提唱。14年から茶行列等のイベントを企画して本格的に参加した人間です。

 今井のまちづくり第1期は「町並み保存のパイオニア」の時代です。昭和30年代から少数の住民リーダーが町並み保存運動を引っ張り、昭和49年、今井、妻籠、有松で「街並み保存連盟」を結成、昭和53年には町を保存してほしいという陳情から始まり「今井町保存問題に関する総合調査対策協議会」(住民協議会)を作り、昭和63年「今井町街並み保存会」に名称を変更、伝建地区保存条例の制定に結び付けました。その道は住民がもがき苦しんできた汗と涙の成果であり、決して恵まれていたわけではありませんでした。

彦根景観シンポジウム 今井町の歴史的まちなみの保存と再生に学ぶ_d0087325_15425190.jpg その後、行政によるハード面での保存が軌道に乗りだすと現在までの第2期が始まります。住民が行政に陳情する受け身の立場から能動的な動きに変わり、イベントの導入と拡大、海外や子供たちへの啓もうと日本文化継承への広がりをめざしています。 (次回につづく)
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# by hikonekeikan | 2012-05-13 10:58 | フォーラム

多賀への道、たけのこごはん、5月の森 多賀里の駅

2012年5月5日 多賀里の駅・一圓屋敷の集い

  近江の道 多賀への道

      愛荘町立歴史文化博物館顧問 門脇 正人さん

多賀への道、たけのこごはん、5月の森 多賀里の駅_d0087325_10233064.jpg 滋賀県で最も集客力のある観光地は「黒壁」(長浜市)だ。平成22年度は約180万人の観光客が訪れた。では、第2位はどこか? 実は、多賀大社で約166万人である。彦根城の約73万人の2倍以上もある。その集客数を生かせているかどうかはさておき、昔から多賀大社は多くの人々を引き寄せてきた。その人達は、どんな道を通って多賀に来たのだろうか。
 今月の多賀里の駅・一圓屋敷の集いは、ふるさとの道の研究家 門脇 正人さんが、多賀につながる「多賀道」をテーマに、身近なふるさとの道の歴史を、残された道標と古地図をもとに解明していく物語を語られた。


数学の先生、街道をゆく
 門脇さんは、長年、彦根東高校で数学の先生をされていて、この日の参加者にも教え子が多く、お話が始まる前や後で旧交を温めておられた。でも、どうして、高校の数学の先生が「道の歴史」を調べて、歴史文化博物館の顧問にまでなられたのだろうか。

 きっかけは、門脇先生(とよばせていただく)が彦根東高校新聞部の顧問をされていたとき、江戸時代に朝鮮通信使がたどった道「朝鮮人街道」を歩いて、消えた道を探るルポの企画があり、その成果が高校新聞の賞を受賞して話題をよび、ついには「朝鮮人街道をゆく-彦根東高校新聞部による消えた道探し-」(サンライズ出版1996年)という著書に結実したことだ。

 このとき、朝鮮人街道を踏査していて、現在のJR能登川駅付近で地元の人の伝承や通説が誤りではないかと思われる個所を発見する。そして、地域に残る江戸期の村の古地図を見出し、伝承や通説の道が明治期に鉄道が開通した際に新しく作られた道であり、本来の道は別にあることを提示した。この体験で「歴史の道」、「ふるさとの道」という視点が定まった。門脇先生の手法は、道にのこる道標や丁石を調べ、地域にのこる古地図を発見して道の変遷を探るというものだ。


多賀への道
多賀への道、たけのこごはん、5月の森 多賀里の駅_d0087325_10275798.jpg 滋賀は、かつては「近江」と呼ばれたが、今も昔も「みちの国」である。門脇先生は、古代には東海道、東山道、北陸道が、近世には、東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北国街道、北国脇往還、御代参街道、八風街道などが整備されたことを説明された後、「多賀への道」について詳しく語られた。

 代表格は、御代参街道である。これは、朝廷が京都から伊勢神宮へ参詣し、さらに多賀大社へ参詣する際に、名代(代参)を派遣したことから「御代参街道」と呼ばれるようになった。東海道の土山宿から、石原・岡本、八日市、中山道の愛知川宿にいたる東海道と中山道のバイパスであり、街道には、伊勢、多賀、北国を示す道標が多い。記録によれば、寛永7年(1640年)、春日局が上洛の途中に伊勢から多賀へ参詣したときに通行し、延宝6年(1678年)には遊行上人(神奈川県藤沢)が通行している。

 門脇先生の発見は、愛知川宿から八日市へ向かう御代参街道には、小畑、三又・新堂、愛知川の3つの道があったことを道標や江戸期の地権図からつきとめたことにある。



多賀道をいく

 さらに、中山道から多賀に至る「多賀道」には、高宮宿にある多賀大社一の鳥居から多賀に向かう高宮道(多賀本道)、彦根の大堀・岩清水神社前からの大堀道、現在の国道306号線と中山道の交点にある原からの原道の3つがある。この他に、湖東地域からは八千代橋-御河辺橋-春日橋を通る道、岐阜・三重からは五僧越え、鞍掛越えの峠道があり、この間に多賀を示す道標は80本を超えるという。

 当然ながら、歴史的な道の確定には困難が伴う。道は、今も昔も政治や経済の都合により移動する。明治期に陸軍測量部が作成した地図にも限界があり、古い道の発見には、道標や丁石と古地図が手掛かりになる。ところが、移動する道標、捨てられる道標、失われる地域の古地図が多く、それらの保存に向けて愛荘町歴史文化博物館が取り組む事業も紹介された。
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道標を建てたのは?
 道標は誰が、何のために作ったのか。門脇先生によると、幕府や朝廷が作ることは考えられない。道標を作るには相当なお金がかかるので、地域の金持ちが作ったと考えられるが、ほとんどが製作年や製作者を入れていないのでよくわからない。ただ、多賀大社などの神社関係では、個人の信者か伊勢講、多賀講の信者などが立てていることが多いという。

 門脇先生が紹介された道標には、常夜灯型から角柱型、川原の自然石に刻んだだけの簡素なものまで様々な種類があったが、地蔵後背型の道標は、滋賀県でも特定地域に集中している珍しいものだという。このような道標を建てたのはどういう人物で、どんな思いをもっていたのだろうか。
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伊勢と多賀のつながり
 実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。しかし、門脇先生のお話しにより、伊勢と多賀のつながりが見えた。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」

と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
 そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。


試食会は、たけのこ料理
 あれこれ妄想している間に、「たけのこごはん」が出された。うっかりそれぞれの料理名を聞き逃したが、シンプルで薄味ながら、たけのこの強い香りがする炊き込みごはんが主役だった。これは、いくらでも食べられるなぁ・・。
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5月の野鳥の森の花々
 集いに先立ち、野鳥の森を彩る自然の植物を観察する会が9時から開催された。
中川信子さんの案内で、5月の若い植物を見て歩いた。おもしろかったのは、非常にありふれたカラスノエンドウ(茎が太くて立派、淡い紅色の花)に、スズメノエンドウ(茎が細くて弱弱しい、白紫色の花)も混じっており、さらに、カラスとスズメの間の大きさの草の意味のカ・ス・マ・グサも混生しているという発見だった。
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 また、オドリコソウの花の白、ミツバアケビの花の深い紅に魅了された。クサイチゴの花から赤いジューシーな実を想像しつつ、5月の森のすがすがしさに「こんな朝が生きる喜びを感じさせてくれるんだ」と、そっとつぶやいてみた。
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次回の多賀里の駅・一圓屋敷の集い、試食会  
    6月2日(土) 9:00~12:00 一圓屋敷 参加料500円 
    第44回 「みんなで歩こう野鳥の森」 中川信子さん(自然観察指導員)
    9:00~ 多賀「里の駅」・一圓屋敷で各自おにぎりをにぎってお弁当を準備します。
         いろんな具でオリジナルおにぎりを作りましょう。
    10:00 初夏の植物を観察しながら、野鳥の森の散策路(約4km)を歩きます。

     自然の中で深呼吸!楽しい発見を一杯しましょう。
# by hikonekeikan | 2012-05-13 10:50 | 多賀里の駅・一圓屋敷

談話室「それぞれの彦根物語」2012.4.21

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# by hikonekeikan | 2012-05-10 17:11 | 談話室「それぞれの彦根物語」